麦藁帽子   堀辰雄   【1万7244字】

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【ブログ=穴埋め・論述問題】

麦藁帽子
堀辰雄

【1万7244字】

 私は十五だった。そしてお前は十三だった。
 私はお前の兄たちと、苜宿《うまごやし》の白い花の密生した原っぱで、ベエスボオルの練習をしていた。お前は、その小さな弟と一しょに、遠くの方で、私たちの練習を見ていた。その白い花を摘んでは、それで花環《はなわ》をつくりながら。飛球があがる。私は一所懸命に走る。球《たま》がグロオブに触《さわ》る。足が滑《すべ》る。私の体がもんどり打って、原っぱから、田圃《たんぼ》の中へ墜落する。私はどぶ鼠《ねずみ》になる。
 私は近所の農家の井戸端《いどばた》に連れられて行く。私はそこで素っ裸かになる。お前の名が呼ばれる。お前は両手で大事そうに花環をささげながら、駈《か》けつけてくる。素っ裸かになることは、何んと物の見方を一変させるのだ! いままで小娘だとばかり思っていたお前が、突然、一人前の娘となって私の眼の前にあらわれる。素っ裸かの私は、急にまごまごして、やっと私のグロオブで私の性《セックス》をかくしている。
 其処《そこ》に、羞《はずか》しそうな私とお前を、二人だけ残して、みんなはまたボオルの練習をしに行ってしまう。そして、私のためにお前が泥だらけになったズボンを洗濯《せんたく》してくれている間、私はてれかくしに、わざと道化けて、お前のために持ってやっている花環を、私の帽子の代りに、かぶって見せたりする。そして、まるで古代の彫刻のように、そこに不動の姿勢で、私は突っ立っている。顔を真っ赤にして……

        ※[#アステリズム、1-12-94]

 夏休みが来た。
 寄宿舎から、その春、入寮したばかりの若い生徒たちは、一群れの熊蜂《くまばち》のように、うなりながら、巣離れていった。めいめいの野薔薇《のばら》を目ざして……
 しかし、私はどうしよう! 私には私の田舎《いなか》がない。私の生れた家は都会のまん中にあったから。おまけに私は一人|息子《むすこ》で、弱虫だった。それで、まだ両親の許《もと》をはなれて、ひとりで旅行をするなんていう芸当も出来ない。だが、今度は、いままでとは事情がすこし違って、ひとつ上の学校に入ったので、この夏休みには、こんな休暇の宿題があったのだ。田舎へ行って一人の少女を見つけてくること。
 その田舎へひとりでは行くことが出来ずに、私は都会のまん中で、一つの奇蹟《きせき》の起るのを待っていた。それは無駄《むだ》ではなかった。C県の或る海岸にひと夏を送りに行っていた、お前の兄のところから、思いがけない招待の手紙が届いたのだった。
 おお、私のなつかしい幼友達よ! 私は私の思い出の中を手探りする。真っ白な運動服を着た、二人とも私よりすこし年上の、お前の兄たちの姿が、先《ま》ず浮ぶ。毎日のように、私は彼|等《ら》とベエスボオルの練習をした。或る日、私は田圃に落ちた。花環を手にしていたお前の傍《そば》で、私は裸かにさせられた。私は真っ赤になった。……やがて彼等は、二人とも地方の高等学校へ行ってしまった。もうかれこれ三四年になる。それからはあんまり彼等とも遊ぶ機会がなくなった。その間、私はお前とだけは、屡々《しばしば》、町の中ですれちがった。何にも口をきかないで、ただ顔を赧《あか》らめながら、お時宜《じぎ》をしあった。お前は女学校の制服をつけていた。すれちがいざま、お前の小さな靴の鳴るのを私は聞いた……
 私はその海岸行を両親にせがんだ。そしてやっと一週間の逗留《とうりゅう》を許された。私は海水着やグロオブで一ぱいになったバスケットを重そうにぶらさげて、心臓をどきどきさせながら、出発した。

 それはT……という名のごく小さな村だった。お前たちは或る農家の、ささやかな、いろいろな草花で縁《へり》をとられた離れを借りて、暮らしていた。私が到着したとき、お前たちは海岸に行っていた。あとにはお前の母と私のあまりよく知らないお前の姉とが、二人きりで、留守番をしていた。
 私は海岸へ行く道順を教わると、すぐ裸足《はだし》になって、松林の中の、その小径《こみち》を飛んで行った。焼けた砂が、まるでパンの焦げるような好い匂《にお》いがした。
 海岸には、光線がぎっしりと充填《つま》って、まぶしくって、何にも見えない位だった。そしてその光線の中へは、一種の妖精《ようせい》にでもならなければ、這入《はい》れないように見えた。私は盲のように、手さぐりしながら、その中へおずおずと、足を踏み入れていった。
 小さな子供たちがせっせと砂の中に生埋めにしている、一人の半裸体の少女が、ぼんやり私の目にはいる。お前かしらと思って、私は近づきかける。……すると大きな海水帽のかげから、私の見知らない、黒い、小さな顔が、ちらりとこちらを覗《のぞ》く。そしてまた知らん顔をして、元のように、すっぽりとその小さな顔を海水帽の中に埋める。……それが私の足を動けなくさせる。
 私は流砂に足をとられながら、海の方へ出たらめに叫ぶ。「ハロオ!」……と、まぶしくて私にはちっとも見えない、その海の中から、それに応《こた》えて、「ハロオ! ハロオ!」
 私はいそいで着物をぬぐ。そして海水着だけになって、盲のように、その声のする方へ、飛び込もうと身構える。
 その瞬間、私のすぐ足許《あしもと》からも、「ハロオ!……」――私は振りむく。さっきの少女が、砂の中から半身を出してにっこりと笑っているのが、今度は、私にもよく見える。
「なあんだ、君だったの?」
「おわかりになりませんでしたこと?」
 海水着がどうも怪しい。私がそれ一枚きりになるや否や、私は妖精の仲間入りをする。私は身軽になって、いままでちっとも見えなかったものが忽《たちま》ち見え出す……

 都会では難《むずか》しいものに見える愛の方法も、至極簡単なものでいいことを会得させる田舎暮らしよ! 一人の少女の気に入るためには、かの女の家族の様式《スタイル》を呑《の》み込んでしまうが好い。そしてそれは、お前の家族と一しょに暮らしているおかげで、私には容易だった。お前の一番気に入っている若者は、お前の兄たちであることを、私は簡単に会得する。彼等はスポオツが大好きだった。だから、私も出来るだけ、スポオティヴになろうとした。それから彼等は、お前に親密で、同時に意地悪だった。私も彼等に見習って、お前をば、あらゆる遊戯からボイコットした。
 お前がお前の小さな弟と、波打ちぎわで遊び戯れている間、私はお前の気に入りたいために、お前の兄たちとばかり、沖の方で泳いでいた。

 沖の方で泳いでいると、水があんまり綺麗《きれい》なので、私たちの泳いでいる影が、魚のかげと一しょに、水底に映った。そのおかげで、空にそれとよく似た雲がうかんでいる時は、それもまた、私たちの空にうつる影ではないかとさえ思えてくる。……

 私たちの田舎ずまいは、一銭銅貨の表と裏とのように、いろんな家畜小屋と脊中《せなか》合わせだった。ときどき家畜らが交尾をした。そのための悲鳴が私たちのところまで聞えてきた。裏木戸を出ると、そこに小さな牧場があった。いつも牛の夫婦が草をたべていた。夕方になると、彼等は何処《どこ》へともなく姿を消す。そのあとで、私たちはいつもキャッチボオルをした。するとお前は、或る時はお前の姉と、或る時はお前の小さな弟と、其処まで遊びに出てきた。いつだったかのように、遠くで花を摘んだり、お前の習ったばかりの讃美歌《さんびか》を唱《うた》ったりしながら。ときどきお前がつかえると、お前の姉が小声でそれを続けてやった。――まだ八つにしかならない、お前の小さな弟は、始終お前のそばに附きっきりだった。彼は私たちの仲間入りをするには、あんまり小さ過ぎた。そんな小さな弟に毎日一ぺんずつ接吻《せっぷん》をしてやるのが、お前の日課の一つだった。「今日はまだ一ぺんもしてあげなかったのね……」そう云って、お前はその小さな弟を引きよせて、私たちのいる前で、平気で彼と接吻をする。
 私はいつまでも投球のモオションを続けながら、それを横目で見ている。
 その牧場のむこうは麦畑だった。その麦畑と麦畑の間を、小さな川が流れていた。よくそこへ釣りをしに行った。お前は私たちの後から、黐竿《もちざお》を肩にかついだ小さな弟と一しょに、魚籠《びく》をぶらさげて、ついてきた。私は蚯蚓《みみず》がこわいので、お前の兄たちにそれを釣針につけて貰《もら》った。しかし私はすぐそれを食われてしまう。すると、しまいには彼等はそれを面倒くさがって、そばで見ているお前に、その役を押しつける。お前は私みたいに蚯蚓をこわがらないので。お前はそれを私の釣針につけてくれるために、私の方へ身をかがめる。お前はよそゆきの、赤いさくらんぼの飾りのついた、麦藁《むぎわら》帽子をかぶっている。そのしなやかな帽子の縁《へり》が、私の頬《ほお》をそっと撫《な》でる。私はお前に気どられぬように深い呼吸をする。しかしお前はなんの匂いもしない。ただ麦藁帽子の、かすかに焦げる匂いがするきりで。……私は物足りなくて、なんだかお前にだまかされているような気さえする。

 まだあんまり開けていない、そのT村には、避暑客らしいものは、私たちの他には、一組もない位だった。私たちはその小さな村の人気者だった。海岸などにいると、いつも私たちの周《まわ》りには人だかりがした程に。そうして村の善良な人々は、私のことを、お前の兄だと間違えていた。それが私をますます有頂天にさせた。
 そればかりでなしに、私の母みたいな、子供のうるさがるような愛し方をしないお前の母は、私をもその子供並みにかなり無頓着《むとんじゃく》に取り扱った。それが私に、自分は彼女にも気に入っているのだと信じさせた。
 予定の一週間はすでに過ぎていた。しかし私は都会へ帰ろうとはしなかった。

 ああ、私はお前の兄たちに見習って、お前に意地悪ばかりしてさえいれば、こんな失敗はしなかったろうに! ふと私に魔がさした。私は一度でもいいから、お前と二人きりで、遊んでみたくてしようがなくなった。
「あなた、テニス出来て?」或る日、お前が私に云った。
「ああ、すこし位なら……」
「じゃ、私と丁度いい位かしら?……ちょっと、やってみない」
「だってラケットはなし、一体何処でするのさ」
「小学校へ行けば、みんな貸してくれるわ」
 それがお前と二人きりで遊ぶには、もってこいの機会に見えたので、私はそれを逃がすまいとして、すぐ分るような嘘《うそ》をついた。私はまだ一度もラケットを手にしたことなんか無かったのだ。しかし少女の相手ぐらいなら、そんなものはすぐ出来そうに思えた。お前の兄たちがいつも、テニスなんか! と軽蔑《けいべつ》していたから。しかし彼等も、私たちに誘われると、一しょに小学校へ行った。そこへ行くと、砲丸投げが出来るので。
 小学校の庭には、夾竹桃《きょうちくとう》が花ざかりだった。彼等は、すぐその木蔭《こかげ》で、砲丸投げをやり出した。私とお前とは、其処からすこし離して、白墨で線を描いて、ネットを張って、それからラケットを握って、真面目《まじめ》くさって向い合った。が、やってみると、思ったよりか、お前の打つ球《たま》が強いので、私の受けかえす球は、大概ネットにひっかかってしまった。五六度やると、お前は怒ったような顔をして、ラケットを投げ出した。
「もう止《よ》しましょう」
「どうしてさ?」私はすこしおどおどしていた。
「だって、ちっとも本気でなさらないんですもの……つまらないわ」
 そうして見ると、私の嘘は看破《みやぶ》られたのではなかった。が、お前のそういう誤解が、私を苦しめたのは、それ以上だった。むしろ、そんな薄情な奴《やつ》になるより、嘘つきになった方がましだ。
 私は頬をふくらませて、何も云わずに、汗を拭《ふ》いていた。どうも、さっきから、あの夾竹桃の薄紅《うすあか》い花が目ざわりでいけない。
 この二三日、お前は、鼠色の、だぶだぶな海水着をきている。お前はそれを着るのをいやがっていた。いままでのお前の海水着には、どうしたのか、胸のところに大きな心臓型の孔《あな》があいてしまったのだ。そこでお前は間に合わせに、あんまり海へはいらない、お前の姉の奴を、借りて着ているのだ。この村では、新しい海水着などは手に入らなかった。一里ばかり向うの、駅のある町まで買いに行かなければ。――そこで或る日、私はテニスの失敗をつぐなう積りで、自分から、その使者を申し出た。
「何処かで自転車を貸してくれるかしら?」
「理髪店のならば……」
 私は大きな海水帽をかぶって、炎天の下を、その理髪店の古ぼけた自転車に跨《またが》って、出発した。
 その町で、私は数軒の洋品店を捜し廻った。少女用の海水着の買物がなんと私の心を奪ったことか! 私はお前に似合いそうな海水着を、とっくに見つけてしまってからも、私はただ私自身を満足させるために、いつまでも、それを選んでいるように見せかけた。それから私は郵便局で、私の母へ宛《あ》てて電報を打った。「ボンボンオクレ」
 そうして私は汗だくになって、決勝点に近づくときの選手の真似《まね》をして、死にものぐるいの恰好《かっこう》で、ペダルを踏みながら、村に帰ってきた。

 それから二三日が過ぎた。或る日のこと、海岸で、私たちは寝そべりながら、順番に、お互を砂の中に埋めっこしていた。私の番だった。私は全身を生埋めにされて、やっと、私の顔だけを、砂の中から出していた。お前がその細部《デテエル》を仕上げていた。私はお前のするがままになりながら、さっきから、向うの大きな松の木の下に、私たちの方を見ては、笑いながら話し合っている二人の婦人のいるのを、ぼんやり認めていた。そのうちの海水帽をかぶった方は、お前の母らしかった。もう一人の方は、この村では、つい見かけたことのない婦人に見えた。黒いパラソルをさしていた。
「あら、たっちゃんのお母様だわ」お前は、海水着の砂を払いながら、起き上った。
「ふん……」私は気のなさそうな返事をした。そうして皆が起き上ったのに、私一人だけ、いつまでも砂の中に埋まっていた。私は心臓をどきどきさせていた。私の隠し立てが、今にもばれそうなので。そうしてそれが、砂の中から浮んでいる私の顔を、とても変梃《へんてこ》にさせていそうだった。私はいっそのこと、そんな顔も砂の中に埋めてしまいたかった! 何故《なぜ》なら、私は田舎から、私の母へ宛てて、わざと悲しそうな手紙ばかり送っていた。その方が彼女には気に入るだろうと思って……。彼女から遠くに離れているばかりに、私がそんなにも悲しそうにしているのを見て、私の母は感動して、私を連れ戻しに来たのかしら?……それだのに、私は、彼女に隠し立てをしていた一人の少女のために、今、こんなにも幸福の中に生埋めにされている!
 おっと、待てよ。今のさっきの様子では、お前は私の母をなんだか知っていたようだぞ! そんな筈《はず》じゃなかったのに?……と、私は砂の中からこっそりとみんなの様子をうかがっている。どうやら、私の母とお前たちの家族とは、ずっと前からの知合らしい。私にはどうしてもそれが分らない。これでは、欺こうとしていた私の方が、反対に、私の母に裏を掻《か》かれていたようなものだ。突然、私は砂を払いのけながら、起き上る。今度はこっちで、あべこべに、母の隠し立てを見つけてやるからいい!……そこで、私はお前にそっと捜《さぐ》りを入れてみる。皆のしんがりになって、家の方へ引きあげて行きながら。……
「どうして僕のお母さんを知っていたの?」「だってあなたのお母様は運動会のとき何時《いつ》もいらっしってたじゃないの? そうして私のお母様といつも並んで見ていらしったわ」私はそんなことはまるっきり知らなかった。何故なら、そんな小学生の時分から、私はみんなの前では、私の母から話しかけられるのさえ、ひどく羞《はず》かしがっていたから。そうして私は私の母から隠れるようにばかりしていたから。……
 ――そして今もそうだった。井戸端で、みんなが身体《からだ》を洗ってしまってからも、私は何時までも、そこに愚図々々していた。ただ、私の母から隠れていたいばかりに。……井戸端にしゃがんでいると、私の脊くらい伸びたダリアのおかげで、離れの方からは、こっちがちっとも見えなかった。それでいて、向うの話し声は手にとるように聞えてくる。私のボンボンの電報のことが話された。みんなが、お前までがどっと笑った。私はてれ臭そうに、耳にはさんでいた巻煙草をふかし出した。私は何度もその煙に噎《む》せた。そして、それが私の羞恥《しゅうち》を誤魔化《ごまか》した。
 誰かが、私の方に近づいてくる足音がした。それはお前だった。
「何してんの?……もうお母様がお帰りなさるから、早くいらっしゃいって?」
「こいつを一服したら……」
「まあ!」お前は私と目と目を合わせて、ちらりと笑った。その瞬間、私たちにはなんだか離れの方が急にひっそりしたような気がした。
 せっかくボンボンやら何やらを持って来てやったのに、自分にはろくすっぽ口もきいてくれない息子の方を、その母は俥《くるま》の上から、何度もふりかえりながら、帰って行った。それがやっぱり彼女の本当の息子だったのかどうかを確かめでもするように。そういう母の姿がすっかり見えなくなってしまうと、息子の方ではやっと、しかし自分自身にも聞かれたくないように、口のうちで、「お母さん、ごめんなさいね」とひとりごちた。

 海は日毎《ひごと》に荒模様になって行った。毎朝、渚《なぎさ》に打ち上げられる漂流物の量が、急に増《ふ》え出した。私たちは海へはいると、すぐ水母《くらげ》に刺された。私たちはそんな日は、海で泳がずに、渚に散らばっている、さまざまな綺麗な貝殻を、遠くまで採集しに行った。その貝殻がもうだいぶ溜《たま》った。
 出発の数日前のこと、私がキャッチボオルで汚《よご》した手を井戸端へ洗いに行こうとすると、そこでお前がお前の母に叱《しか》られていた。私はそれが私の事に関しているような気がした。それを立聞きするにはすこし勇気を要した。気の小さな私はすっかりしょげて、其処から引き返した。――私はあとでもって、一人でこっそりと、その井戸端に行ってみた。そしてそこの隅《すみ》っこに、私の海水着が丸められたまま、打棄《うちす》てられてあるのを見た。私ははっと思った。いつもなら私の海水着をそこへ置いておくと、兄たちのと一緒に、お前がゆすいで乾《ほ》して置いてくれるのだ。そのことでお前はさっきお前の母に叱られていたものと見える。私はその海水着を、音の立たないように、そっと水をしぼって、いつものように竿《さお》にかけておいた。
 翌朝、私はその砂でざらざらする海水着をつけて、何食わぬ顔をしていた。気のせいか、お前はすこし鬱《ふさ》いでいるように見えた。

 とうとう休暇が終った。
 私はお前の家族たちと一しょに帰った。汽車の中には、避暑地がえりの真っ黒な顔をした少女たちが、何人も乗っていた。お前はその少女たちの一人一人と色の黒さを比較した。そうしてお前が誰よりも一番色が黒いので、お前は得意そうだった。私は少しがっかりした。だが、お前がちょっと斜めに冠《かぶ》っている、赤いさくらんぼの飾りのついたお前の麦藁《むぎわら》帽子は、お前のそんな黒いあどけない顔に、大層よく似合っていた。だから、私はそのことをそんなに悲しみはしなかった。もしも汽車の中の私がいかにも悲しそうな様子に見えたと云うなら、それは私が自分の宿題の最後の方がすこし不出来なことを考えているせいだったのだ。私はふと、この次ぎの駅に着いたら、サンドウィッチでも買おうかと、お前の母がお前の兄たちに相談しているのを聞いた。私はかなり神経質になっていた。そして自分だけがそれからのけ者にされはしないかと心配した。その次ぎの駅に着くと、私は真先きにプラットフォムに飛び下りて、一人でサンドウィッチを沢山買って来た。そして私はそれをお前たちに分けてやった。

        ※[#アステリズム、1-12-94]

 秋の学期が始まった。お前の兄たちは地方の学校へ帰って行った。私は再び寄宿舎にはいった。
 私は日曜日ごとに自分の家に帰った。そして私の母に会った。この頃から私と母との関係は、いくらかずつ悲劇的な性質を帯びだした。愛し合っているものが始終均衡を得ていようがためには、両方が一緒になって成長して行くことが必要だ。が、それは母と子のような場合には難しいのだ。
 寄宿舎では、私は母のことなどは殆《ほと》んど考えなかった。私は母がいつまでも前のままの母であることを信じていられたから。しかし、その間、母の方では、私のことで始終不安になっていた。その一週間のうちに、急に私が成長して、全く彼女の見知らない青年になってしまいはせぬかと気づかって。で、私が寄宿舎から帰って行くと、彼女は私の中に、昔ながらの子供らしさを見つけるまでは、ちっとも落着かなかった。そして彼女はそれを人工培養した。
 もし私がそんな子供らしさの似合わない年頃になっても、まだ、そんな子供らしさを持ち合わせているために不幸な人間になるとしたら、お母さん、それは全くあなたのせいです。……
 或る日曜日、私が寄宿舎から帰ってみると、母はいつものような丸髷《まるまげ》に結っていないで、見なれない束髪に結っていた。私はそれを見ながら、すこし気づかわしそうに母に云った。
「お母さんには、そんな髪、ちっとも似合わないや……」
 それっきり、私の母はそんな髪の結い方をしなかった。

 それだのに、私は寄宿舎では、毎日、大人になるための練習をした。私は母の云うことも訊《き》かないで、髪の毛を伸ばしはじめた。それでもって私の子供らしさが隠せでもするかのように。そうして私は母のことを強《し》いて忘れようとして、私の嫌《きら》いな煙草のけむりでわざと自分を苦しめた。私の同室者たちのところへは、ときおり女文字の匿名《とくめい》の手紙が届いた。皆が彼|等《ら》のまわりへ環《わ》になった。彼等は代る代るに、顔を赧《あか》らめて、嘘《うそ》を半分まぜながら