みやざき はやお宮粼 駿

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宮崎駿

出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』


みやざき はやお
宮粼 駿

2008年8月31日、ヴェネツィア国際映画祭にて
本名 宮粼 駿(みやざき はやお)
別名 秋津 三朗(あきつ さぶろう)
照樹 務(てれこむ)
宮崎 駿(みやざき はやお)
生年月日 1941年1月5日(69歳)
出生地 東京府東京市
国籍 日本
職業 アニメーション作家、
映画監督、漫画家
ジャンル 映画、テレビアニメ
活動期間 1963年 -
家族 宮粼吾朗(長男)
宮粼敬介(二男)
主な作品
アニメーション映画
ルパン三世 カリオストロの城』(脚本・監督)
風の谷のナウシカ』(原作・脚本・監督)
天空の城ラピュタ』(原作・脚本・監督)
となりのトトロ』(原作・脚本・監督)
魔女の宅急便』(脚本・プロデュース・監督)
紅の豚』(原作・脚本・監督)
もののけ姫』(原作・脚本・監督)
千と千尋の神隠し』(原作・脚本・監督)
ハウルの動く城』(脚本・監督)
崖の上のポニョ』(原作・脚本・監督)

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実写映画
柳川堀割物語』(製作)

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テレビアニメ
未来少年コナン』(演出)

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漫画
風の谷のナウシカ』(作)
宮崎駿の雑想ノート』(作)

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絵物語
シュナの旅』(作)
もののけ姫』(作)

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小説
天空の城ラピュタ』(原作・絵)

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音楽
『君をのせて』(作詞)
『となりののトトロ』(作詞)
もののけ姫』(作詞)
崖の上のポニョ』(補作詞)

[表示] 受賞
アカデミー賞
第75回最優秀長編アニメーション映画賞
第78回優秀長編アニメーション映画賞
日本アカデミー賞
第13回話題賞
第21・25回最優秀作品賞
第32回最優秀アニメーション作品賞
ブルーリボン賞
第31回特別賞
第44回作品賞
その他の賞
第34・39・41・43・56・63回毎日映画コンクール大藤信郎賞
第43・52・56回毎日映画コンクール日本映画大賞
第44・47・52・56回毎日映画コンクールアニメーション映画賞
第52・56・59回毎日映画コンクール日本映画ファン賞
第56回毎日映画コンクール監督賞
第2・6回日本アニメ大賞作品賞
第4回日本アニメ大賞特別賞
第6回日本アニメ大賞脚本賞
第6回日本アニメ大賞主題歌賞
第16・20回星雲賞メディア部門
第26回星雲賞コミック部門
第23回日本漫画家協会賞大賞
第12回山路ふみ子映画賞
第13・26回報知映画賞監督賞
第22回報知映画賞特別賞
第39回芸術選奨文部大臣賞
第39回芸術選奨芸術作品賞
第5・10回日刊スポーツ映画大賞石原裕次郎
第14回日刊スポーツ映画大賞作品賞
1993年アヌシー国際アニメーション映画祭長編作品部門グランプリ
第1・5回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門大賞
第5回文化庁メディア芸術祭特別賞
第52回ベルリン国際映画祭金熊賞
2002年アニー賞長編アニメ映画賞
2002年アニー賞監督賞
2002年アニー賞脚本賞
第61回ヴェネツィア国際映画祭オゼッラ賞
第62回ヴェネツィア国際映画祭名誉金獅子賞
第37回シッチェス・カタロニア国際映画祭観客賞
2007年ネビュラ賞スクリプト部門賞
第2回バークレー日本賞

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宮粼 駿(みやざき はやお、1941年1月5日 - )は、日本のアニメーション作家・映画監督・漫画家。東京府東京市出身(墨田区という説もある)。学習院大学政経学部卒。血液型O型。小金井市の名誉市民。小金井市在住。アニメーション制作会社スタジオジブリに映画監督として所属し、2005年4月より取締役。また、自身が企画開発した三鷹の森ジブリ美術館の館主である。個人の事務所は二馬力で、主に宮粼の著作権関連の管理を行っており、自身は代表取締役社長である。別名として秋津 三朗(あきつ さぶろう)、照樹 務(てれこむ)がある。映画などのクレジットタイトルでは宮崎 駿(みやざき はやお)と表記されることもある。

目次 [非表示]
1 来歴
1.1 初期
1.2 未来少年コナンからナウシカまで
1.3 スタジオジブリ発足
2 略歴
3 作風
4 政治的・思想的スタンス
5 作品
5.1 監督作品
5.1.1 長編アニメーション映画
5.1.2 短編アニメーション映画
5.1.3 テレビアニメーション
5.2 参加作品
5.2.1 劇場用アニメーション映画
5.2.2 テレビアニメーション
5.2.3 実写作品
6 その他の作品
6.1 漫画・絵物語・イメージボードなど
6.2 デザインワーク
6.3 作詞
6.4 著書(対談・インタビューなど)
6.5 カバー・イラスト
7 絵コンテ集
7.1 劇場用アニメーション映画
7.2 テレビアニメーション
8 幻の作品一覧
9 脚注
10 関連項目
11 参考文献
11.1 関連書籍
11.2 関連DVD
12 外部リンク

来歴 [編集]
初期 [編集]
宮崎駿は、一族が経営する「宮崎航空興学」の役員を務める一家の4人兄弟の二男に生まれ、太平洋戦争中であっても何不自由なく幼年時代を過ごした[1]。

幼少時は身体が弱かった[2]ので運動は苦手だったが、絵はずば抜けて上手かった。熱心な読書家であり、手塚治虫杉浦茂の漫画、特に福島鉄次の絵物語『砂漠の魔王』のファンという“漫画少年”でもあった。当時の進学校である東京都立豊多摩高等学校在学中の3年生の時に観た東映動画製作『白蛇伝』に感動し[3]、アニメーションにも関心を持つようになる。

学習院大学に進学したが、当時は大学に漫画サークルが無かったため、一番近そうな児童文学サークル(児童文化研究会)に所属する。幾つかの人形劇を企画しつつ、漫画家を志し漫画を描き続けていたが[4]、漫画かアニメーションかを悩んだ末に、アニメーションの世界へ進む事を決断する[5]。学習院大学を卒業し、アニメーターとして東映動画に定期採用で入社し、動画などを手がける。

その後、しばらくは東映動画で制作されていた作品に魅力を感じることが出来ず、漫画家への未練を断ち切れずにいたが、入社1年後に観たソ連製作長編アニメーション映画『雪の女王』に強い感銘を受け[6]、アニメーションを一生の仕事にしようと決意した。たちまち才能を現してメインスタッフとなると共に、結成間も無い東映動画労働組合の書記長に就任する。1965年秋には、24歳で同じ東映の年上の女性と結婚し、その後2人の男子をもうける。激しい組合活動を行いながら高畑勲森康二大塚康生らと共に3年がかりの大作、『太陽の王子ホルスの大冒険』(1965-1968年)を作り上げた。

1971年、高畑勲小田部羊一と共に東映動画を退社、新企画「長靴下のピッピ」を制作するためにAプロダクションに移籍したが、版権の問題で立ち消えになってしまう。その後、宮崎と高畑は大塚康生に誘われ、視聴率が低調だったTVアニメ、『ルパン三世』を途中から演出の仕事を引き受けることになった。大きく視聴率は回復しなかったものの、宮崎は高畑・大塚とともにその後の『ルパン』の基礎となる部分を作り上げた(詳しくはルパンの項を参照)。「ピッピ」の経験を活かし、高畑、小田部らと子供向け映画『パンダコパンダ』(1972年、1973年)を2本作り、好評を得る(脚本、場面設定、美術、原画などを担当)。1973年には、高畑、小田部とともにズイヨー映像(のちの日本アニメーション)に移籍し、『アルプスの少女ハイジ』の準備に入る。1974年TVアニメ、『アルプスの少女ハイジ』で全カットの場面設定・画面構成(レイアウト)を担当。主要スタッフとして1年半番組を引っ張った。この作品は最高平均視聴率が26.9%となるなど大ヒットとなり、宮崎としても初の大きな成功であった。

未来少年コナンからナウシカまで [編集]
1978年、『未来少年コナン』(NHK)で事実上の初監督を務める。名義上は演出であり監督ではないが、他に監督はいなかった。演出を行いながら、オリジナル・スケッチ(ストーリーボード)・設定・キャラクターデザイン・メカデザインを全話担当し、大半の絵コンテ、レイアウトを描いた上、スタッフの作った脚本・絵コンテ・レイアウト・原画を、高畑勲応援分を除き全て1人でチェックするという、前代未聞の超人的な作業量をこなした[7]。持ち前の高度な作家性を発揮して、原作「残された人びと」の悲壮なイメージを大幅に改変し、オリジナルといってもよい作品を作り上げた。後に宮崎アニメと呼ばれる作品群の原点とも言える。視聴率は低調だったが、この作品に衝撃を受け、後にアニメーターやアニメ演出家となった者はかなり多い(未来少年コナン#本作の影響を参照)。

その後、リニューアルされ人気を博していた『ルパン三世』の映画を一緒にやろうと大塚に持ちかけられ、当初は「もうルパンは古臭い」と宮崎は乗り気ではなかったが最終的に了承。その為テレコム・アニメーションフィルム東京ムービー新社内)に移籍し、映画『ルパン三世 カリオストロの城』(1979年)で映画作品の監督デビューをした。宮崎は「カリオストロではじめて体力の限界を知った」というほど、監督として映画製作に尽力し、半年という短い期間で作り上げた。しかし、当時の『2ndルパン』のイメージと違う作風や、SFアニメ全盛の時代ということもあって、大衆受けはせず、興行的には前作に及ばなかった。むしろ興行的不振のために、しばらくの間映画に携われない不遇の時を過ごすことになった。しかし後に、再放送されては高視聴率をあげるなど、アニメーションの金字塔的作品として高い評価を受けている。この直後には、『ルパン三世』で最終回含め2話の制作に演出として携わっている。

テレコム・アニメーションフィルムによる日米合作映画『リトル・ニモ』の準備に大塚康生高畑勲らと共に携わり、アメリカとの間を行き来したが、企画への疑問から降板。この時期、『となりのトトロ』『もののけ姫』『風の谷のナウシカ』『天空の城ラピュタ』などの原型となるオリジナル企画を構想しているが実現には至らなかった。

『コナン』の時より宮崎に注目していた徳間書店の『アニメージュ』誌編集長・尾形英夫が、自社イベントの為の特別短編アニメーション企画を彼に持ち掛ける。企画は短編の筈だったが次第に拡大、「原作付き企画」のハクをつけるべく1982年『アニメージュ』2月号より『風の谷のナウシカ』の連載が始まる[8]。尾形の尽力によって、当時映画事業に意欲的だった徳間書店徳間康快社長(当時)が劇場アニメーション化を決断し[9]、宮崎の弟が勤務する博報堂がこれに乗る形でプロジェクトが結成され、1984年にアニメーション映画として製作・公開された。映画『風の谷のナウシカ』は、『ルパン三世 カリオストロの城』がテレビ放映され、その面白さが広く社会に認知されたことや、エコロジー・ブームの中にあったことと相俟って大ヒットとなり、作家としての宮崎駿が広く認知されることとなった[10]。

スタジオジブリ発足 [編集]
その後は1985年に徳間書店の出資を得て創設したスタジオジブリを舞台に、ほぼ2〜4年おきに長編作品を製作している。1986年の『天空の城ラピュタ』と1988年の『となりのトトロ』では興行成績はそれほど振るわなかったが、その後両作の人気は著しく高まり、ぬいぐるみなどのグッズの販売やビデオ販売の収入により、ジブリの経営を下支えすることができた。

ジブリ作品が興行的に成功し、また宮崎駿が国民的映像作家としての地位を確立したのは1989年公開の『魔女の宅急便』以降である。また、宮崎作品は今でこそ国際的にも高い評価を受けているが、欧米では1996年に徳間書店とディズニーが業務提携するまで本格的な劇場公開は行われず、正規ルートでのビデオ発売も遅れたために、欧米諸国で知られるのは遅れた。それでも、日本アニメファン達は日本語版の宮崎アニメを見ることで宮崎駿の作品に接し、熱心なファン層が広がっていった。

1997年に公開された『もののけ姫』は、ジブリ史上最大の製作費、宮崎の監督引退説などが話題になった事もあり、『E.T.』が持っていた日本の映画興行記録を15年ぶりに塗り替える大ヒット作となった。

2001年に発表した『千と千尋の神隠し』は興行記録をさらに塗り替え、観客動員2350万人、興行収入304億円と、日本における映画史上第1位の新記録を作った。日本国外からの評価も非常に高く、翌年のベルリン国際映画祭では日本としては39年ぶり、アニメーションとしては史上初の金熊賞を受賞し、2003年にはアカデミー賞長編アニメーション部門作品賞を受賞した。

2004年公開の『ハウルの動く城』は、宣伝を極めて抑えた公開であったにもかかわらず公開2日目で観客動員数110万人、興行収入14億8,000万円と日本映画歴代最高のオープニングを飾り、映画史上第2位の大ヒットを記録。さらにヴェネチア国際映画祭のオゼッラ賞、ニューヨーク映画批評家協会最優秀アニメーション賞を受賞し、その年の米アカデミー賞の長編アニメ部門に再びノミネートするなど前作同様日本国外においても高く評価された。

2005年には、ヴェネチア国際映画祭において優れた世界的映画人に贈られる栄誉金獅子賞を受賞。2006年には、アメリカ映画界最高の名誉とされるアカデミー賞の選考委員に選ばれ、招待状が送付された。宮崎はこれ以前に2度選ばれているが、創作活動に専念したいなどの理由から就任を辞退した。

2008年7月19日に、新作『崖の上のポニョ』を公開。公開後1か月で興行収入100億円を突破する興行成績を挙げ、ヴェネチア国際映画祭での上映は約5分のスタンディングオベーションで迎えられた。

崖の上のポニョ』製作中、体力的にも本作が最後の長編になるだろうと述べていた[11]。しかし、映画公開後に宮崎が『崖の上のポニョ』の観客動員数より、『ハウルの動く城』の方が高かった事実を知ってショックを受け、「もう一本作る」とやる気を出し始めたという[12][13]。次回監督作は2013年頃に公開予定[14]。今後の作画に関しては『崖の上のポニョ』のように手描きでいくとの意向であるが、以前のような作画に戻る可能性もあるという[15]。

マスコミの前に出ることを嫌う時期もあったが、『崖の上のポニョ』の製作時にNHKによって2度、「プロフェッショナル 仕事の流儀」にて密着ドキュメントが作られた。アニメ作りに苦悩奮闘する素の宮崎駿の姿が放送され、大きな反響を呼んだ。また、2008年11月20日の日本外国特派員協会に招かれ、アニメ界の危惧も含め、熱く論弁した。

略歴 [編集]
1941年 1月5日東京都文京区生まれ。なお、同年生まれのアニメ監督には、りんたろう芝山努富野由悠季、鳥海永行がいる。杉並区立永福小学校、杉並区立大宮中学校、東京都立豊多摩高等学校卒。
1963年 学習院大学政経学部卒業。東映動画入社。なお、同年の政経学部卒業生には、麻生太郎(前内閣総理大臣)、高島肇久(日本国際放送社長、元NHK解説委員長)、三枝輝行(阪神百貨店相談役)、有薗憲一(ベスト電器相談役)らがいる。
1964年 東映動画労働組合の第2代書記長に就任。なお、初代書記長は大塚康生
1965年 同僚の太田朱美と結婚[16]。なお、式の司会は大塚康生
1967年 長男(宮崎吾朗・(財)徳間記念アニメーション文化財団理事)誕生。
1970年 次男(宮崎敬介・木口木版画家)誕生。
1971年 高畑勲小田部羊一と共にAプロダクション(現シンエイ動画)に移籍。
1973年 高畑勲小田部羊一と共にズイヨー映像 (後に日本アニメーションに改組)に移籍。
1978年 『未来少年コナン』で演出家に転向。
1979年 東京ムービーの子会社テレコム・アニメーションフィルムに移籍。
1982年 1月より『アニメージュ』誌上で『風の谷のナウシカ』連載開始。日米合作劇場アニメーション映画『リトル・ニモ』の準備に携わったが企画への疑問から製作から降り、11月22日、テレコム・アニメーションフィルムを退社。
1984年 4月、個人事務所二馬力を設立。
1985年 スタジオジブリを設立。
1990年 東京都民文化栄誉章を受章。
1998年 スタジオジブリを退社し、「豚屋」を設立。第26回アニー賞・生涯功労賞、山路ふみ子文化賞淀川長治賞を受賞。
1999年 スタジオジブリに所長として復帰。
2000年 第3回司馬遼太郎賞を受賞。
2001年 三鷹の森ジブリ美術館を創立し、初代館主に就任。第49回菊池寛賞を受賞。
2002年 朝日賞、フランス国家功労賞、パリ市勲章を受章。『Business Week』誌のStar of Asia・イノベーター部門に選出。
2003年 埼玉県民栄誉賞を受賞。『TIME』誌アジア電子版の「アジアの英雄20人」に選出。
2004年 12月、パリ造幣局美術館にて、初の個展となる「MIYAZAKI-MOEBIUS」展を開催。
2005年 徳間書店より独立した、株式会社スタジオジブリの取締役に就任。第62回ベネチア国際映画祭・栄誉金獅子賞、国際交流基金賞を受賞。『TIME』誌の「世界で最も影響力のある100人」に選出。
2006年 日本テレビ2階・マイスタ外壁に設置される巨大時計のデザインを手掛ける。『TIME』誌アジア版の「60年間のアジアの英雄」に選出。
2008年 スタジオジブリ社内保育園『3匹の熊の家』を竣工し、初代園長に就任。東京都小金井市名誉市民に選出。長男に息子が生まれ、初孫を授かる。
2009年 第2回バークレー日本賞を受賞。『Fast Company Magazine』の「ビジネスシーンで最もクリエイティブな世界の100人」の31位に選出。
作風 [編集]
子供の視点
一貫して子供に向けて作品を作り続けている。これについて、「厳しい現実世界からの、子供の一時の逃げ場が必要だ」という趣旨の発言をしている[17]。児童文学を愛読し、「アニメーションは基本的に子供の物」と公言し、その作品はほぼ一貫して子供の視点に立ち、悪役を大人にすることが多い。ただし、多くの作品は単純明快な勧善懲悪ものではなく、「悪役」もまた、重層的で複雑なキャラクターであることが多い。主人公が少女であることが多いが、この理由は同性であると対象化しきれず、元気な女の子の方がやる気が出るからだと話している。
宮崎は、自分の息子が子供だった頃には、その年代に合わせて成長するにつれて、対象年齢を上げて作品を作っており[18]、息子が成長しきると今度は友人など子供を対象にして、『千と千尋の神隠し』の公開時にはガールフレンドである友人の娘のために作った作品だと説明していた[19]。常に子供が観客であった。スタジオジブリについても、子供向けのいい映画を作るスタジオにしたいと語っていた[20]。最も本人の趣味が反映された『紅の豚』に関しては製作後も「道楽でくだらない物を作ってしまった」と罪悪感に囚われ続け、次回作が完成して漸く「呪い」から開放されたと述べている[21]。
エコロジカルな世界観
世界観の描き方から、メディアではエコロジーの視点で評価されることが多い。ただし宮崎はそれを好ましく思っていない。また多くの作品で空を舞うシーンが描かれることが多いが、宮崎もそれを意識している。観客に作品世界の空間の広がりを意識させるためだという。
脚本なしでの制作
制作の準備段階でイメージボードを大量に描いて作品の構想を練り、脚本なしで絵コンテと同時進行で作品を制作していくという手法で知られる。これは、周囲から「日本アニメーション界のウォルト・ディズニー」「制作要らずの宮さん」と呼ばれる程の超人的制作管理能力を持つ宮崎にして初めて可能な手法である。ただし、まったくの白紙の状態から絵コンテを描くわけではなく、ノートにストーリーの構成やアイディアを書いている。本人によれば、「一日中文字を書いていることもある」ということである。
戦史・軍事マニア
戦史・軍事マニアとして知られ、第二次世界大戦から前の甲冑・鎧兜や兵器・AFV(装甲戦闘車両)に造詣が深い。作中で登場する兵器や乗り物にはその知識が十全に活かされている。この方面の趣味が発揮されている作品としては『月刊モデルグラフィックス』誌の『宮崎駿の雑想ノート』という虚実織り交ぜた架空戦記物の超不定期連載漫画がある。連載初期は珍兵器を描いた数ページの絵物語だったが、次第にコマが割られてストーリー漫画に変貌していった。漫画の形態に変わった後の特徴として、作中に登場する女性は普通の人間だが、男性は一部を除いて擬人化された豚になっている。現在はモデルグラフィックス誌に零式艦上戦闘機の開発者である堀越二郎の若き日を描く『風立ちぬ』を2009年4月号より連載している。ジブリ内の会議中でも、暇さえあれば今でも戦車の落書きを描いているという。
声優の起用
主要なキャストの声の役にアニメ声優の起用を避ける傾向がある。ジブリでも『魔女の宅急便』以前はアニメ声優を中心に起用していたが、『紅の豚』以降は実写俳優や、洋画の吹替え声優、歌手、タレント、文化人などを主要な役柄に声優として起用することが増えている[22]、『もののけ姫』以降は、主役・準主役に、アニメ声優を本業とするものを起用することが減っており、俳優、女優を起用することが多い。この点に関して一部の実写俳優・タレントの演技力などについて否定的な意見がある。もっとも、近年の実写俳優、タレント起用に関しては、宮崎以外のジブリ作品も同様であり、興行的側面を優先するプロデューサーの鈴木敏夫の意向が強いとされている。しかし宮崎も、海外メディアとのインタビューの中で「我々が欲しいのはコケティッシュな声ではない」という旨を述べている[1][23]。ただし今日では、日本やハリウッドで制作されるアニメーション映画の主要なキャストに実写俳優を起用することは普通のことになっており、スタジオジブリの制作上の際立った特徴であるとは言えなくなっている[24]。
作品名の共通点
監督を担当した長編アニメーション映画の作品名には、千と千尋の神隠し崖の上のポニョなど、どれも平仮名の「の」が含まれているのが特徴。ある国語学者によると、この手の物はヒットしやすいという[25]
ただし、必ずしも本人の意図ではなく、『もののけ姫』では『アシタカせっ記[26]』を題名にしたかったという宮崎の意に反して鈴木敏夫により『もののけ姫』で既成事実化されたといい、宮崎本人は必ずしも拘ってはいない[27]。
手塚治虫の評価
1989年、手塚治虫が亡くなった時、漫画では自分も影響を受けた、と全面的に肯定した上で、アニメーションに携わる人間の立場から、アニメーション作家としての手塚が日本のアニメーション史に残した影響に批判を加えた。特にテレビアニメーション草創期に、手塚が市場優位性を確立させるため、『鉄腕アトム』など自ら経営する虫プロダクションの制作番組を原価を割り込むほどの低価格で売り込んだことが、現在に至るまで日本のアニメーション製作費が極めて低く抑えられる要因となったとして批判した。同じインタビューの中では、手塚治虫作品の悲劇性についても否定的な見解を示し、その文脈から「ある街角の物語」「しずく」などの手塚がアニメーション作家として自主制作していた作品に対しても否定的評価を下した[28]。
東映入社以来、映画アニメに携わっていた宮崎も低賃金、非人間的労働環境がまかり通っていたTVアニメの方に回され、そこから映画アニメ専門の世界に移るまでには長い期間を要した。
日本のアニメ界への危機感
2002年のベルリン映画祭金熊賞受賞の際の記者会見のインタビューで「今の日本のアニメーションはどん詰まり」などと語った。1985年2月号のアニメ雑誌アニメージュ』の押井守河森正治との対談で「どんづまり」、1986年『天空の城ラピュタ』製作中に行ったアニメーション雑誌記者との会見[29]でも「崖っぷち」と表現するなど、以前から、短時間・低予算で量産される日本のアニメーションに対して、危機感を抱き続けており、スタジオジブリのスタジオ運営では月給制を取っていたこともあった。イギリスのBBCなど日本国内外の様々なメディアで伝えられ、日本国内のみならず日本国外のアニメーションファンを含めて様々な反響があった[30]。なお、西島克彦が『アニメージュ』に載せた『プロジェクトA子』のコメントを取り上げて、「セーラー服が機関銃撃って走り回っているアニメーションを作っていちゃダメなんです」「女の子がバズーカ振り回すような作品はいいかげんやめてほしい」と発言したのは、上記のうち1986年の会見でのことである。
政治的・思想的スタンス [編集]
反戦
一貫して戦争の悲惨さ、愚かさを描き、『風の谷のナウシカ』以降は環境保全を主題とした作品を作り続け[要出典]、湾岸戦争に対しては米国政府の方針に反対の立場を表明していた。[31]また『紅の豚』も湾岸戦争に対する反感が作風に反映されているという[32]。『風の谷のナウシカ』など複数の作品に登場する戦火にのまれる街の描写などは堀田善衛方丈記私記をイメージしたものだという[33]。ただし『未来少年コナン』『風の谷のナウシカ』『もののけ姫』などには、侵略者や圧制に対する武力抵抗を肯定するような描写もあり、そのスタンスは単純な非暴力・反戦というわけでもない。
思想的転向があると考える見方
大学時代から社会主義思想に傾倒するようになり[要出典]、東映動画入社後は激しい組合活動を行った。その後も長らく左翼的思想を保ち続けていたが、中国やソ連などの現実の社会主義国への批判的発言も少なくない。特に1989年の天安門事件および東欧革命に大きな衝撃を受け、社会主義陣営の歴史的敗北という現実を前に、思想的修正を余儀なくされたとする向きもある[34]。
宮崎の強権的「国家」に対する批判的姿勢は、作家の堀田善衛司馬遼太郎らとの交流から、人間の実相を「もっと長いスタンスで、もっと遠くを見る」ように凝視する、宮崎が"澄んだニヒリズム"と呼ぶところの姿勢に転換していく。例えば漫画版『風の谷のナウシカ』のラストなどに、その人間観・世界観の変化の影響が見受けられる。
本質的な思想的転向はないという見方
宮崎はもともと統制的・強権的な社会主義には懐疑的であり、ソ連や中国の社会主義に対する批判は以前から行っている。また近年においてもアメリカ公演で毛沢東語録から言葉を引用したり、「若い人たちがまた独立系の労働組合をつくったりしているようですけど、いろんなところで立ち上がって革命をおこしたほうがいいんです。」[35]と発言するなど、労働運動や革命など左派的な概念に関する肯定的姿勢は変わっていない。
更に2008年11月19日、ジョージ・オーウェル原作のアニメーション映画作品『動物農場』の日本公開に先立って行われたインタビューの中で宮崎は「いまこそ民主的な社会主義が見直されるべきではないか」と発言した[36]。こうした点から根本的な思想転向はないとする見方もある。またインタビューでマルクス主義について問われた際、「マルクス的な見方を完全にしなくなった訳ではない」とする趣旨の発言をしている[37]。
中尾佐助の思想
宮崎に深く影響を与えた思想に、植物学者中尾佐助による「照葉樹林文化論」がある。ヒマラヤ山脈南麓から中国南部・日本本州南半分までを含む地域が、茶・酒・柑橘類などの特色を持つ共通の農耕文化圏に含まれるとするこの学説に、国家の枠を乗り越える視点を与えられ、「呪縛からの解放」感を味わったという。この影響は特に『もののけ姫』に強く表れており、その後も宮崎はインタビュー・対談など事ある毎に中尾佐助を引き合いに出している。
ナショナリズムへの批判
閉塞感漂う日本の現状について尋ねられた際、「ナショナリズムからの解放」を主張するなど民族主義への批判を展開しており[38]、「世界の問題は多民族にある」とも語っている。
憲法九条
宮崎は日本国憲法改定に関して9条の支持を表明[要出典]しているが、同時にもし国民が9条改定を選択したならそれを尊重するといった趣旨の発言もしており[要出典]、政治的リアリストとしての一面も持っている。
もののけ姫』における歴史観
もののけ姫』には、従来の日本の中世史ではあまり語られてこなかった、たたら(鑪・鈩)製鉄技術者集団、馬子運送業者、らい病患者が登場し、女性が産業を担い発言権を持っている描写や、「天朝さまとはなんぞや。」とうそぶく女性を登場させるなど、網野善彦の中世史観の影響が強く窺える。この作品については、網野自身も自著において「ずいぶん勉強した上でつくられている」と高く評価する[39]。もっとも、いわゆる「網野史観」に全面的に依拠しているわけではなく、大規模な定着化した踏鞴場の描写など、技術者集団等の非定着性に注目した網野と対立する観点も散見される(ただし、蒸気機関等の動力が存在しない環境で周囲を禿山にした踏鞴場を維持し続けることは不可能で、資源の採取が困難になれば踏鞴場の移転もありうる。物語の都合上割愛されているわけだが、この点をもって網野の世界と対立するとは言い切れない)。
欧米世界への批判
J・R・R・トールキンの作品『指輪物語』がピーター・ジャクソン監督により映画化された際、悪の勢力に味方するために象をつれて登場した人々が“アジア的”に描かれていたため、宮崎はこれを「白人中心主義のアジア人差別映画」であると批判した。また原作についても同様の批判を展開し、西洋ファンタジーの古典にそうした側面がある事を理解しない風潮を「馬鹿なんです」とも語った[40]。また上述の流れからアメリカ映画(ハリウッド)全体に対しても「アメリカ人はダーッと撃ったらドイツが爆発したとか、相変わらずそんな映画ばかり作っている」「アフガニスタン戦争での誤爆と同じ理屈」など痛烈な批判を行い、(作り手の欧米人はともかく)日本人が一緒になって喜んでいる事を「信じられないぐらい恥ずかしい事」と評した[41]。
多神教優越主義
宮崎は常々多神教優越主義者として知られており[要出典]、日本の『多神教』は『一神教』より寛容であると主張し[要出典]、とりわけ『もののけ姫』以降の作品には、多神教優越主義的なモチーフが用いられ、また自身も対談などで一神教を攻撃している[要出典]。
作品 [編集]
監督作品 [編集]
長編アニメーション映画 [編集]
1979年 ルパン三世 カリオストロの城(脚本)
(第18回大藤信郎賞、キネマ旬報創刊85周年「オールタイムベスト・テン」アニメーション部門第1位)
1984風の谷のナウシカ(原作・脚本)
(大藤信郎賞、第23回日本漫画家協会賞・大賞)
1986年 天空の城ラピュタ(原作・脚本)
(大藤信郎賞)
1988年 となりのトトロ(原作・脚本)
毎日映画コンクール・日本映画大賞・大藤信郎賞、第39回芸術選奨・芸術作品賞・文部大臣賞、第12回山路ふみ子映画賞キネマ旬報日本映画ベスト・テン第1位)
1989年 魔女の宅急便(脚本・プロデュース)
毎日映画コンクール・アニメーション映画賞)
1992年 紅の豚(原作・脚本)
毎日映画コンクール・アニメーション映画賞、アヌシー国際アニメーションフェスティバル・長編部門賞)
1997年 もののけ姫(原作・脚本)
毎日映画コンクール日本映画大賞・大藤信郎賞、第2回アニメーション神戸・部門賞・演出部門、日本アカデミー賞・最優秀作品賞、第1回文化庁メディア芸術祭・アニメーション部門大賞)
2001年 千と千尋の神隠し(原作・脚本)
毎日映画コンクール・日本映画大賞・監督賞・アニメーション映画賞、第5回文化庁メディア芸術祭・アニメーション部門大賞、第52回ベルリン国際映画祭金熊賞、第68回ニューヨーク映画批評家協会・最優秀アニメ賞、ボストン映画批評家協会・特別賞、第30回アニー賞・長編アニメ映画賞・監督賞・脚本賞・音楽賞、第75回アカデミー賞・長編アニメーション映画賞)
2004年 ハウルの動く城(脚本)
(第61回ベネチア国際映画祭・金のオゼッラ賞、第37回シッチェス・カタロニア国際映画祭・観客賞、第16回ザグレブ国際アニメーションフェスティバル・功労賞、第9回ハリウッド映画祭・ベストアニメーション賞、ニューヨーク映画批評家協会・最優秀アニメ賞、アメリカSFファンタジー作家協会 (SFWA) ・ネビュラ賞(脚本部門))
2008年 崖の上のポニョ(原作・脚本)
(第8回ミンモ・ロテッラ財団賞、フューチャー・フィルム・フェスティバル・デジタル・アワード特別表彰、東京国際アニメフェア2009・第8回東京アニメアワード・アニメーションオブザイヤー・国内劇場部門優秀作品賞・原作賞・監督賞、第32回日本アカデミー賞・最優秀アニメーション作品賞、大藤信郎賞)
短編アニメーション映画 [編集]
1995年 On Your Markジブリ実験劇場(原作・脚本)
2001年 フィルムぐるぐる(絵コンテ)
2001年 くじらとり(脚本)
(大藤信郎賞)
2002年 コロの大さんぽ(原作・脚本)
2002年 めいとこねこバス(原作・脚本・トトロ役)
2002年 空想の空飛ぶ機械達(原作・脚本・ナレーション)
2006年 水グモもんもん(原作・脚本)
2006年 星をかった日(脚本)
2006年 やどさがし(原作・脚本)
2010年 ちゅうずもう(企画・脚本)
テレビアニメーション [編集]
1971年 ルパン三世(第4話以降のAプロ演出グループ名義、原画#9・#14・#15・#16・#17・#18・#19・#21・#23)
1978年 未来少年コナン
1980年 ルパン三世
第145話「死の翼アルバトロス」(照樹務名義)
第155話「さらば愛しきルパンよ」(照樹務名義)
1985年 名探偵ホームズ
第3話「小さなマーサの大事件!?」
第4話「ミセス・ハドソン人質事件」
第5話「青い紅玉」
第9話「海底の財宝」
第10話「ドーバー海峡の大空中戦!」
第11話「ねらわれた巨大貯金箱」
参加作品 [編集]
劇場用アニメーション映画 [編集]
1963年 わんわん忠臣蔵(動画)
1964年 少年忍者風のフジ丸(原画手伝い・初原画)
1965年 ガリバーの宇宙旅行(動画・原画)
1968年 太陽の王子ホルスの大冒険 (場面設計・原画)
1969年 長靴をはいた猫(原画)
1969年 空飛ぶゆうれい船(原画)
1971年 どうぶつ宝島(アイデア構成・原画)
1971年 アリババと40匹の盗賊(原画)
1972年 パンダコパンダ(原案・脚本・場面設定・原画)
1973年 パンダコパンダ 雨ふりサーカスの巻(脚本・美術設定・画面構成・原画)
1977年 草原の子テングリ(画面レイアウト(部分))※ノンクレジット
1991年 おもひでぽろぽろ(製作プロデュース)
1994年 平成狸合戦ぽんぽこ(企画)
1995年 耳をすませば(脚本・絵コンテ・制作プロデュース、一部演出も)
2002年 猫の恩返し(企画)
2006年 ゲド戦記(原案)
テレビアニメーション [編集]
1966年 レインボー戦隊ロビン(原画手伝い)
1969年 ひみつのアッコちゃん(原画手伝い)
1969年 ムーミン(原画#23)
1972年 赤胴鈴之助(絵コンテ#26・#27・#41)
1973年 侍ジャイアンツ(原画#1)
1973年 ジャングル黒べえ(キャラクター原案)
1974年 アルプスの少女ハイジ(場面設定・画面構成)
1975年 フランダースの犬(原画#15)
1976年 母を訪ねて三千里(場面設定・画面構成#2)
1977年 あらいぐまラスカル(原画#4・#5・#6・#10・#12・#13・#14・#15・#16・#17・#18・#19・#20・#21・#22・#24・#25・#26・#27・#28)
1979年 赤毛のアン(場面設定・画面構成#1〜15)
1980年 太陽の使者 鉄人28号(原画#8A)
実写作品 [編集]
2002年 オーニソプター物語〜飛べ!ひよどり天狗号(出演)
その他の作品 [編集]
漫画・絵物語・イメージボードなど [編集]
長靴をはいた猫
砂漠の民(秋津三朗名義)
どうぶつ宝島 ※以上は初期作品
妹へ(「宮崎駿大塚康生の世界」に収録)
風の谷のナウシカ(全7巻)
シュナの旅 徳間書店アニメージュ文庫
走れ二馬力、風より疾く(『NAVI』1989年12月号に収録)
空中でお食事(JALWINDS1994年6月号に収録)
風の谷のナウシカ宮崎駿水彩画集」 徳間書店 
飛行艇時代 「紅の豚」原作 大日本絵画 1992年、2004年
宮崎駿の雑想ノート 大日本絵画 1997年
知られざる巨人の末弟
甲鉄の意気地
多砲塔の出番
農夫の眼
竜の甲鉄
九州上空の重轟炸機
高射砲塔
Q.ship
特設空母安松丸物語
ロンドン上空1918年
最貧前線
飛行艇時代 
豚の虎
宮崎駿の妄想ノート 大日本絵画 2002年
ハンスの帰還
泥まみれの虎
妄想カムバック 『モデルグラフィックス』に連載 大日本絵画 
風立ちぬ
『ブラッカムの爆撃機』 ロバート・ウェストール・作、宮崎駿・編、金原瑞人訳 (児童書) 岩波書店 2006年10月 ISBN 4-00-024632-1
「ブラッカムの爆撃機」「チャス・マッギルの幽霊」「ぼくを作ったもの」の3編を収録に加えて、宮崎の描き下ろしで「ウェストール幻想 タインマスへの旅 前・後編」(コマ漫画、カラー24頁分)を併録。
『水深五尋』 ロバート・ウェストール・作 金原瑞人、野沢佳織訳、岩波書店、2009年3月
続篇、チャス・マッギルのもう1つの物語
デザインワーク [編集]
TVCM『日立マクセル・ニューゴールド・ビデオテープ』の「ワンダーシップ号」
TVCM『日立パソコンH2』の「ポシェット竜」
実写映画『赤いカラスと幽霊船』の幽霊船
日本テレビ放送網のシンボルキャラクター「なんだろう」(TVCMのアニメでは演出も担当)
神奈川県「かながわ・ゆめ国体」のマスコットキャラクター「かなべえ」
三鷹の森ジブリ美術館
三鷹市のみたかモールのマスコットキャラクター「POKI」
江戸東京たてもの園のシンボルキャラクター「えどまる」
読売新聞のシンボルキャラクター「どれどれ」
中日ドラゴンズ公式ファンクラブのマスコットキャラクター「ガブリ」
1991年、映画宣伝用に自主的に作ったキャラクターを、球団創設70年にあたる2006年、ファンクラブ設立にあたり起用したもの。熱心な中日ファンとして知られるスタジオジブリプロデューサー・鈴木敏夫の橋渡しによって採用されることとなった。
日本テレビ社屋外壁(マイスタジオ上)の大からくり時計「日テレ大時計」
広島県福山市鞆町坂本竜馬のゆかりの宿「御舟宿いろは」
小金井市のイメージキャラクター「こきんちゃん」
作詞 [編集]
『君をのせて』(『天空の城ラピュタ』エンディング)
『風のとおり道』(『となりのトトロ』挿入歌)
となりのトトロ』(『となりのトトロ』エンディング)
カントリー・ロード』(日本語訳詞の補作)(『耳をすませば』エンディング)
『バロンのうた』(『耳をすませば』イメージアルバム より)
もののけ姫』(『もののけ姫』主題歌)
千と千尋の神隠し』イメージアルバム
『神々さま』
『油屋』
『さみしい さみしい』
『白い竜』
『お母さんの写真』(CMソング)
崖の上のポニョ』イメージアルバム
崖の上のポニョ』(補作詞)(『崖の上のポニョ』主題歌)
『いもうと達』
『ポニョの子守唄』
『ひまわりの家の輪舞曲』
著書(対談・インタビューなど) [編集]
『トトロの住む家』(画文集)朝日新聞社
『時代の風音』(司馬遼太郎堀田善衛との鼎談集)朝日文芸文庫
『何が映画か―「七人の侍」と「まあだだよ」をめぐって』(黒澤明との対談集) スタジオジブリ
時には昔の話を』(加藤登紀子との共著、絵本、対談)徳間書店
『巨樹を見に行く―千年の生命との出会い』(共著)講談社カルチャーブックス
『出発点 1979〜1996』(エッセイ・発言集)徳間書店
『折り返し点 1997〜2008』(エッセイ・発言集)岩波書店
『教育について』(共著、インタビュー集)旬報社
『虫眼とアニ眼』(養老孟司との対談集)新潮文庫
『風の帰る場所―ナウシカから千尋までの軌跡』(渋谷陽一によるインタビュー集)ロッキング・オン
カバー・イラスト [編集]
『惑星カレスの魔女』(ジェイムズ・ヘンリー・シュミッツ著、新潮文庫創元推理文庫
『夜間飛行』(アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ著、新潮文庫
『人間の土地』(アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ著、新潮文庫
チェスタトン1984年/新ナポレオン奇譚』(ギルバート・ケイス・チェスタートン著、春秋社)
絵コンテ集 [編集]
劇場用アニメーション映画 [編集]
パンダコパンダ/パンダコパンダ雨降りサーカスの巻 スタジオジブリ絵コンテ全集第II期 (徳間書店
ルパン三世カリオストロの城 スタジオジブリ絵コンテ全集第II期 (徳間書店
風の谷のナウシカ スタジオジブリ絵コンテ全集1(徳間書店
天空の城ラピュタ スタジオジブリ絵コンテ全集2(徳間書店
となりのトトロ スタジオジブリ絵コンテ全集3 (徳間書店
魔女の宅急便 スタジオジブリ絵コンテ全集5(徳間書店
紅の豚 スタジオジブリ絵コンテ全集7(徳間書店
耳をすませば スタジオジブリ絵コンテ全集10(徳間書店
もののけ姫 スタジオジブリ絵コンテ全集11(徳間書店
千と千尋の神隠し スタジオジブリ絵コンテ全集13(徳間書店
ハウルの動く城 スタジオジブリ絵コンテ全集14(徳間書店
崖の上のポニョ スタジオジブリ絵コンテ全集16(徳間書店
これら「絵コンテ全集」の出版とは別に、『風の谷のナウシカ』についてはアニメージュ文庫にて、『天空の城ラピュタ』『となりのトトロ』『魔女の宅急便』についてはロマンアルバムにて(いずれも徳間書店)、映画公開から程なくして出版されたものの、いずれも現在は絶版である。
テレビアニメーション [編集]
ルパン三世 死の翼アルバトロス/さらば愛しきルパンよ スタジオジブリ絵コンテ全集第II期 (徳間書店
名探偵ホームズ 小さなマーサの大事件!?/ミセス・ハドソン人質事件/青い紅玉 スタジオジブリ絵コンテ全集第II期 (徳間書店
名探偵ホームズ 海底の財宝/ドーバー海峡の大空中戦!/ねらわれた巨大貯金箱 スタジオジブリ絵コンテ全集第II期 (徳間書店
幻の作品一覧 [編集]
宮崎駿が関与・企画・構想するも諸般の事情で幻に終わった、もしくは実現していない作品のリスト。なお、いくつかのタイトルは便宜上付けられた仮題である。

長くつ下のピッピ
1971年頃、アストリッド・リンドグレーン原作の児童文学作品、宮崎らAプロダクションのスタッフたちはスウェーデンまでロケハンに行ったが原作者から映画化の承諾を得られなかった。そのイメージは後に『パンダコパンダ』や『魔女の宅急便』で活かされている。
ユキの太陽
ちばてつやの漫画。パイロットフィルムのみ製作された。
もののけ姫
1980年頃、『美女と野獣』&戦国時代をモチーフとしているが、1997年に映画化された『もののけ姫』とは題名が共通なだけで、物語もデザインも全く異なる作品である。イメージボードは1993年にスタジオジブリ(後に徳間書店)から大型絵本として出版されている。
ルパンの娘
1981年頃、アニメ評論家の岡田英美子との対談で語ったもの。主人公であるルパン三世の娘が、頭の弱い不二子の姪とコンビを組む学園物。
ロルフ
1981年頃、リチャード・コーベン原作のアングラコミック。イメージボードが作成されている。舞台設定やデザインは『風の谷のナウシカ』の原型とも言える作品。
戦国魔城
1981年頃、日本の戦国時代を舞台にしたSFオリジナル作品。イメージボードが作成されている。ここで『ナウシカ』や『ラピュタ』へ繋がる設定が多く生み出された。
NEMO
1981-1982年、ウィンザー・マッケイ原作の『リトル・ニモ』の企画にテレコム・アニメーションフィルムのスタッフとして当初から関わって大量のイメージボードを作成していたが、制作発表前に降板して退社。フリーになっている。映画自体は1989年に公開されている。
風の谷の一日
1983年頃、ナウシカ幼年時代を、風の谷の日常を通して描くというもの。徳間書店の「アニメグランプリ」イベント用に宮崎が提案した。
アンカー
1980年代半ば、夢枕獏との対談で宮崎が提案した。『ラピュタ』完成後、原作夢枕、脚本宮崎、監督押井守、プロデューサー高畑勲で検討されるが、企画段階で中止される。宮崎の構想によると舞台は当時の東京、お姫様のような不思議な女の子が何者かに追われて、偶然に出会った男の子がその子を逃がすためにある場所まで送り届けると、また違う人間が別の場所まで送り届けるという恋愛要素を含んだ冒険ものであるという。しかし、美少女を出そうとする宮崎と鼻垂れ小僧のような汚い少女を出そうとする押井の間で企画は消滅した(「押井守の世界 2008年2月16日」より説)。
突撃!アイアンポーク
1985年頃、「宮崎駿の雑想ノート」から派生したOVA作品の企画で、これも監督に押井守が予定されていた。
東京物語
ふくやまけいこの漫画。後に現代には合わないと判断している。
墨攻
古代中国が舞台の酒見賢一原作の歴史小説。構想では、敵に包囲された都市を1人の墨者が防衛するというもの。押井守の監督で検討されたが宮崎と話が食い違い、消滅する。
東京汚穢合戦
宮崎が1997年、NHK番組『トップランナー』に出演した時に語ったもの。
ゴチャガチャ通りのリナ
柏葉幸子原作の児童文学『霧のむこうのふしぎな町
煙突描きのリン
震災後の東京を舞台に、大阪からやってきたリンが風呂屋に住み込み、煙突に絵を描くという話。三鷹の森ジブリ美術館でそのプロットが見られる。この物語のために作られた木村弓の『いつも何度でも』が、後に『千と千尋の神隠し』の主題歌となった。
毛虫のボロ
長年宮崎が温めてきた「虫の視点から世界を描く」という企画。『もののけ姫』の前にボツになったが、後に『水グモもんもん』として実現した。
旅のラゴス
筒井康隆原作のSFファンタジー小説
ジョナサンと宇宙クジラ
ロバート・F・ヤングSF小説
名探偵芥川龍之介夏目漱石
明治の文豪が出てくる探偵モノ。
脚注 [編集]
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^ 会社が中島飛行機の下請けとして軍用機の部品を生産していたことが、軍事用兵器に対する相矛盾する感情を生むことになった。宮崎が回想した戦争体験としては、疎開先の宇都宮が空襲を受け、親類の運転するトラックで4歳の駿を含む宮崎一家が避難した際、子供を抱えた近所の男性が「助けてください」と駆け寄ってきた。しかし、トラックは既に宮崎の家族でいっぱい。車はそのまま走り出した。その時に「乗せてあげて」と叫べなかった事が重い負い目となって、後々の人生や作品に大きく影響を与えた、と語っている。(宮崎駿「アニメーション罷り通る」(大泉実成宮崎駿の原点――母と子の物語』潮出版社、2002年、pp.24-28))
^ 医者からは20歳まで生きられないと言われ、これは後の創作に影響を与えた、と言う。(『プロフェッショナル 仕事の流儀』2008年8月5日)
^ 宮崎駿「日本のアニメーションについて」『日本映画の現在』岩波書店、1988年。宮崎駿『出発点 1979〜1996』徳間書店、1996年にも所収。
^ この時期、何本かの社会主義革命の漫画を執筆して持込みをした事もあったが、「ウチは時代劇扱ってないんですけど」と編集者に門前払いされている。『風の帰り道』(pp.251)
^ 「劇画の世界と、アニメーションの世界と、どちらが表現方法として優れているかというので、ずいぶん自分でも悩み続けて、結局、アニメーションの方が優れているという結論を、自分なりに出してしまったんです」(『THIS IS ANIMATION 1』小学館、1982年)
^ 「これほどのことがアニメーションでできるなら、いつか自分もやってみたい、アニメーターになっていてよかったと思って、はっきりと腰が座った」(『THIS IS ANIMATION 1』小学館、1982年)
^ NHK-BS『BSアニメ夜話/未来少年コナン』(2005年6月27日放送)での大塚康夫の証言。及び大塚康夫『作画汗まみれ 増補改訂版』168頁
^ 漫画版『風の谷のナウシカ』は、アニメ公開後も断続的に描き継ぎ、アニメ公開10年後の1994年に完結。アニメ版の結末の思想を、自ら否定するような内容となった。
^ 尾形英夫「あの旗を撃て!―『アニメージュ』血風録」オークラ出版、2004年
^ 初のオリジナル長編映画だった『風の谷のナウシカ』製作中、宮崎が6歳の時から病気で寝たきりの母が亡くなり、非常に悔やんだと話している。この後、宮崎の作品には自身の母をモチーフにしたキャラクターが頻出するようになる。(『プロフェッショナル 仕事の流儀』2008年8月5日)
^ 監督のインタビューコメント 『プロフェッショナル 仕事の流儀』 2007年3月28日
^ (東京FM『ジブリ汗まみれ』 2008年12月10日)
^ 映画公開後、鈴木敏夫に対し「72歳で死ぬことに決めた、あと5年なら一本しか作れない」と発言(東京FM『ジブリ汗まみれ』 2008年8月26日)
^ 「ポニョはこうして生まれた。宮崎駿の思考過程」 試写会の鈴木敏夫の発言
^ 第65回ヴェネツィア国際映画祭 記者会見時のインタビュー
^ なお、妻の朱美には著書『ゴローとケイスケ―お母さんの育児絵日記』がある。
^ 富沢洋子編『また、会えたね!』アニメージュ文庫 徳間書店、1983年
^ 宮崎駿『出発点 1979〜1996』岩波書店、1996年、pp.83,88
^ 「宮崎駿ロングインタビュー この映画が作れて僕は幸せでした」『千尋と不思議の町 千と千尋の神隠し徹底攻略ガイド』ニュータイプ編、角川書店、2001年、p.35
^ 宮崎駿『出発点 1979〜1996』岩波書店、1996年、p.123
^ CUT誌2009/11/19号
^ 『天空の城ラピュタ』でも主人公の少年パズー役に実際の少年を起用しようとしたといい、実写俳優の採用は早くから検討されていた。『天空の城ラピュタ』でパズー役の田中真弓などプロの成人女性声優を起用したのは演技力の問題であったという(『アニメージュ徳間書店、1986年8月号)。
^ また2008年のヴェネツィア国際映画祭では、「アニメとかじゃなく、映画を作っていると思ってます。」と語っている。
^ なお、虫プロダクションで1969年に製作された「千夜一夜物語」を皮切りとする「アニメラマ」シリーズで、話題性を重視して文化人やコメディアンを中心にキャストを起用しており、ジブリアニメが非声優中心のキャスティングの先駆けというわけではない。
^ 世界一受けたい授業より。
^ せっ記は、「聶記」と書かれることもあるが、厳密には[冠 (漢字)|冠|]に「耳」ではなく4画くさかんむりの「艹」をあしらった、「正史には残らずに耳から耳へ伝えられた物語」を意味する宮崎による造語
^ 鈴木敏夫『仕事道楽 スタジオジブリの現場』岩波新書、2008年、p.86
^ 「手塚治虫に「神の手」をみた時、ぼくは彼と決別した」『コミックボックス』ふゅーじょん・ぷろだくと、1989年5月号(宮崎駿『出発点 1979〜1996』に所収)。
^ 『コミックボックス』に全録、『月刊OUTみのり書房、1986年8月号に抄録で掲載。
^ 『アニメージュ』2002年5月号において、宮崎の発言に対する5人のアニメ業界人のコメントを掲載。久美薫『宮崎駿の仕事 1979〜2004』(鳥影社、2004年)では宮崎発言が「反響が大きかった」とし、久美自身も8ページをかけて宮崎発言を論じる。
^ 「「それでも戦争は正しくない」 文化人ら市民が米紙に意見広告計画」『朝日新聞』1991年3月16日朝刊31面
小田実を中心とする市民グループ「市民の意見30の会」による、「ニューヨーク・タイムズ湾岸戦争を批判した意見広告を掲載しよう」という呼びかけに応じた。
^ 『CUT』誌2009年11月19日号
^ 『NEWS ZERO』(日本テレビ系)ZERO CULTURE 宮崎アニメの原点(2008年11月24日)
^ これら及び“社会主義への傾倒から照葉樹林文化論への転向”(後述)といった宮崎の精神的変遷に関しては久美薫『宮崎駿の仕事 1979〜2004』(鳥影社、2004年)、井上静著『宮崎駿は左翼なんだろう?』(世論時報社・1998年)、評論集『宮崎駿の着地点をさぐる』(青弓社・1997年)等で詳説されている
^ 「動物農場を語る 宮崎駿インタビュー」 映画『動物農場』公式サイト
^ 「動物農場を語る 宮崎駿インタビュー」 映画『動物農場』公式サイト
^ 『CUT』誌2009年11月19日号
^ 「宮崎駿監督、映画哲学を語る」
^ 網野善彦『「忘れられた日本人」を読む』(岩波書店、2003年)p.31 - 34
^ 2002年10月号『フィギュア王』でのインタビュー
^ 2002年10月号『フィギュア王』でのインタビュー
関連項目 [編集]
高畑勲
鈴木敏夫
久石譲
男鹿和雄
宮崎吾朗
宮崎敬介
二馬力
スタジオジブリ
三鷹の森ジブリ美術館
草屋
日本アニメーション
世界名作劇場
徳間書店
徳間康快
原徹
大塚康生
ジョン・ラセター
押井守
豚屋
マンマユート団
CHAGE and ASKA
のの法則



参考文献 [編集]
関連書籍 [編集]
高畑勲
『映画を作りながら考えたこと』(徳間書店、1991年)(ISBN 4-19-554639-7)
『映画を作りながら考えたこと2』(徳間書店、1999年)(ISBN 4-19-861047-9)
大塚康生
『作画汗まみれ 増補改訂版』(徳間書店、2001年)(ISBN 4-19-861361-3)
『リトル・ニモの野望』(徳間書店、2004年)(ISBN 4-19-861890-9)
大泉実成宮崎駿の原点 母と子の物語』(潮出版社、2002年)(ISBN 4-267-01653-4)
尾形英夫『あの旗を撃て!「アニメージュ」血風録』(オークラ出版、2004年)(ISBN 4-7755-0480-0)
鈴木敏夫
『映画道楽』(ぴあ、2005年)(ISBN 4-8356-1540-9)
『仕事道楽 スタジオジブリの現場』(岩波新書、2008年)(ISBN 4004311438)
叶精二『宮崎駿全書』(フィルムアート社、2006年)(ISBN 4845906872)
久美薫『宮崎駿の時代 1941〜2008』(鳥影社、2008年)
関連DVD [編集]
『「もののけ姫」はこうして生まれた。』(ブエナビスタホームエンターテイメント、2001年)
柳川堀割物語』(ブエナビスタホームエンターテイメント、2003年)
『ラセターさんありがとう』(ブエナビスタホームエンターテイメント、2003年)
『世界・わが心の旅(2巻セット)』(ブエナビスタホームエンターテイメント、2004年)
宮崎駿プロデュースの1枚のCDは、こうして生まれた。』(ブエナビスタホームエンターテイメント、2004年)
宮崎駿ジブリ美術館』(ブエナビスタホームエンターテイメント、2005年)
『ポニョはこうして生まれた。 〜宮崎駿の思考過程〜 』(ブエナビスタホームエンターテイメント、2009年)
外部リンク [編集]
スタジオジブリ
The Internet Movie Database: Hayao Miyazaki (英語)
[表示]表・話・編・歴宮崎駿

宮崎駿 監督作品

テレビアニメ ルパン三世 第1期(各話、1971年) | ルパン三世 第2期(各話、1977年) | 未来少年コナン(1978年) | 名探偵ホームズ(各話、1984年)

長編アニメーション映画 ルパン三世 カリオストロの城(1979年) | 風の谷のナウシカ1984年) | 天空の城ラピュタ(1986年) | となりのトトロ(1988年) | 魔女の宅急便(1989年) | 紅の豚(1992年) | もののけ姫(1997年) | 千と千尋の神隠し(2001年) | ハウルの動く城(2004年) | 崖の上のポニョ(2008年)

短編アニメーション On Your Mark(1995年) | フィルムぐるぐる(2001年) | くじらとり(2001年) | コロの大さんぽ(2002年) | めいとこねこバス(2002年) | 空想の空飛ぶ機械達(2002年) | 水グモもんもん(2006年) | 星をかった日(2006年) | やどさがし(2006年)


宮崎駿 主要参加作品

劇場用アニメーション映画 ガリバーの宇宙旅行 - 太陽の王子 ホルスの大冒険 - 長靴をはいた猫 - 空飛ぶゆうれい船 - どうぶつ宝島 - パンダコパンダ - パンダコパンダ 雨ふりサーカスの巻 - 草原の子テングリ - 耳をすませば

テレビアニメーション アルプスの少女ハイジ - 母をたずねて三千里 - 赤毛のアン(1 - 15話)


[表示]表・話・編・歴スタジオジブリ

アニメーション
長編作品 天空の城ラピュタ - となりのトトロ - 火垂るの墓 - 魔女の宅急便 - おもひでぽろぽろ - 紅の豚 - (海がきこえる) - 平成狸合戦ぽんぽこ - 耳をすませば - もののけ姫 - ホーホケキョ となりの山田くん - 千と千尋の神隠し - 猫の恩返し - ハウルの動く城 - ゲド戦記 - 崖の上のポニョ - 借りぐらしのアリエッティ

アニメーション
短編作品 On Your Mark - ギブリーズ - フィルムぐるぐる - くじらとり - コロの大さんぽ - めいとこねこバス - 空想の空飛ぶ機械達 - 空想の機械達の中の破壊の発明 - ギブリーズ episode2 - ポータブル空港 - space station No.9 - 空飛ぶ都市計画 - 水グモもんもん - 星をかった日 - やどさがし - ちゅうずもう

実写作品 式日 - サトラレ

関連項目 トップクラフト - 風の谷のナウシカ - 三鷹の森ジブリ美術館 - サツキとメイの家 - 日本テレビ放送網 - 徳間書店 - スタジオカジノ - 金曜ロードショー - トヨタ自動車 - ウォルト・ディズニー・ジャパン

経営者 徳間康快 - 原徹 - 鈴木敏夫 - 星野康二

監督経験者 宮崎駿 - 高畑勲 - 望月智充 - 近藤喜文 - 百瀬義行 - 庵野秀明 - 本広克行 - 森田宏幸 - 宮崎吾朗 - 山下明彦 - 米林宏昌

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最終更新 2010年2月5日 (金) 13:06

連合国軍占領下の日本

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連合国軍占領下の日本

出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

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提案の要約:#年表について
連合国軍占領下の日本
日本商船管理局旗
準国章: 菊花紋章


標語 (なし)
公用語 日本語(事実上の公用語
首都 東京
天皇 昭和天皇
連合国軍最高司令官 ダグラス・マッカーサー(1945年‐1951年)
マシュー・リッジウェイ(1951年‐1952年)
内閣総理大臣 東久邇宮稔彦王(1945年)
幣原喜重郎(1945年-1946年)
吉田茂(1946年‐1947年)
片山哲(1947年-1948年)
芦田均(1948年)
吉田茂(1948年-1954年)
通貨 円
国歌 君が代

連合国軍占領下の日本(れんごうこくぐんせんりょうかのにほん)とは、第二次世界大戦終結からサンフランシスコ講和条約締結までの間、連合国軍の占領下に置かれた日本である。

目次 [非表示]
1 概要
2 統治
2.1 分割案
3 政策
3.1 憲法
3.2 政治
3.3 文化、思想
3.4 領土
4 マッカーサーへの手紙
5 年表
6 脚注
7 参考文献
8 関連項目
9 外部リンク

概要 [編集]
日本政府は、1945年8月14日、ポツダム宣言の受諾を連合国に通告した。翌8月15日、昭和天皇はラジオで終戦詔書を日本国民に発表した(玉音放送)。1945年9月2日に、日本政府代表は戦艦ミズーリの船上で連合国との間で降伏文書に正式に調印した。この日本の降伏により、日本は連合国の占領下に入れられた。

降伏文書の調印に先立ち、アメリカ主導で組織された連合国軍は、同年8月28日からイギリスやオーストラリア、ニュージーランドなどによるイギリス連邦による協力を受け、日本への進駐を開始した。連合国は当初、軍政を実施するとしていたが、日本政府は「無条件降伏は日本軍のみであり、日本政府は該当しない」として抗議を行い、これを撤回させた[1]。

1951年9月8日、日本政府はサンフランシスコ講和条約(正式名:日本国との平和条約)に調印した。同条約は1952年4月28日に発効し、日本は正式に国家としての主権を回復した。外交文書で正式に戦争が終わった日は1945年9月2日であるが、講和条約発効まで含めると1952年4月28日が終戦の日となる。

統治 [編集]
日本の歴史

昭和天皇ダグラス・マッカーサーの会見
(1945年9月27日)
旧石器時代
縄文時代
弥生時代
古墳時代
飛鳥時代
奈良時代
平安時代
鎌倉時代
南北朝時代
建武の新政
室町時代
戦国時代
安土桃山時代
江戸時代
幕末
明治時代
大正時代
昭和時代
連合国軍占領下の日本
平成時代

Category:日本の歴史
日本教育史
日本の書道史
日本の貿易史
日本の軍事史
日本の海軍史

表・話・編・歴

アメリ国立公文書館の計画書による日本の分割統治計画案アメリカ大統領ハリー・トルーマンダグラス・マッカーサー連合国軍最高司令官(SCAP:Supreme Commander of the Allied Powers)に任命した。日本では「連合国軍最高司令官総司令部」をGHQ(General Headquarters)と呼称する。日本に進駐した連合軍の大部分はアメリカ軍であったがイギリス連邦の諸国軍も進駐した。

日本の間接統治の最高機関として極東委員会を、最高司令官の諮問機関として対日理事会が設置され、その傘下に置かれたGHQが全面的に占領業務を行うこととなった。

分割案 [編集]
第二次世界大戦中、連合国軍はドイツと同様に日本の分割直接統治(東京都区部は米中蘇英、近畿地方の大部分はアメリカと中華民国による共同統治となるなど)を計画していた。しかし、天皇を通して統治した方が簡易であるという重光葵の主張を受け入れ、最終案では日本政府を通じた間接統治の方針に変更した。よって「日本」という国家が消滅したわけではなく、主権が制限された傀儡国家の状態であった。

政策 [編集]
連合国軍最高司令官総司令部」も参照


占領初期に掲揚が禁止された日章旗
日本商船管理局 (SCAJAP)旗。占領下の日本商船旗。国際信号旗のE旗の端を三角に切り落としたもの。日章旗の掲揚禁止を受けて用いられた貿易
輸出製品には"Made in Occupied Japan" (占領下日本製、の意)と表示することが義務付けられた。

憲法 [編集]
日本国憲法」も参照

1945年10月4日、マッカーサーの示唆により憲法改正の作業が開始された。連合国軍総司令部によって作成された草案を基に日本側による修正が加えられ、1946年11月3日に新憲法が公布。1947年5月3日に施行された。

象徴天皇制
連合国軍は、皇室に対し改革を行い、天皇は新憲法によって政治権力を失い、日本国および日本国民統合の象徴とされた。また、多数の皇族が財産を没収され、皇籍離脱を余儀なくされた。しかし、連合国軍によって殺された皇族はおらず、日本の皇族にとっては温情のある処置であったとする意見もある。また人間宣言によって天皇が現人神であることは否定されたが、第二次世界大戦以前の日本では「天照大神が皇室の祖」と歴史教科書に記述されていた一方で、進化論の基本概念もまた特に抵抗なく教育されており、多くの日本人はこの人間宣言象徴天皇制を平静に受容した。
戦争放棄
憲法に「戦争放棄」を明記して、日本を軍事的脅威たらしめないこととした。日本は後の朝鮮戦争期に、同戦争に国連軍の1国として派兵していたアメリカの意向により戦力を保有することになるが、その解釈と体制を巡って現在もなお日本国内で論争が続いている。
政治 [編集]
東京裁判
連合国は極東国際軍事裁判を通して、「戦争指導者」とされた人物を「処罰」した。併せて「日本が平和と人道に対する罪を犯した」と3年間にわたって宣伝し続けた。なお、敗者である日本が、勝者である連合国軍に裁かれた極東軍事裁判は、ドイツで行われたニュルンベルグ裁判同様、右派や旧国家勢力のみならず、国際法学者(ラダ・ビノード・パール)から「裁判の体を成していない」や「復讐目的の裁判」や「事後裁判だ」と批判される。一方左派からは「最高権力者の昭和天皇が裁かれないのはおかしい」という批判を受けている。 「平和に対する罪」などの新しい概念を生み出し、新たな戦争犯罪を裁く枠組みをつくりあげたと評価する意見もある[誰?]。
結党の自由と政治犯の釈放
治安維持法が廃止され、これにより「思想犯」として捕らわれていた徳田球一をはじめとする共産党員などが解放された。結党の自由も保障されたが、後に元「政治犯」の多くは日本共産党などの左翼政党を結成した(日本共産党はこの時再建された)。これに加え国内経済の疲弊による労働運動の激化、また1949年の中華人民共和国の成立や朝鮮半島情勢の悪化もあり、その後GHQ共産党員とその支持者を弾圧する方針に転じた(レッドパージ、逆コース)。これら左翼政党は保守政党英米に対し対立姿勢を強めていくこととなる。
財閥解体
「太平洋戦争遂行の経済的基盤」になった財閥の解体による、第二次世界大戦以前の日本の資本家勢力の除去が目的とされる経済民主化政策である。これにより多くの新興企業が生まれたが、後に解体された財閥の一部は元の形に戻ることとなった。
農地改革
地主から土地を強制的に召し上げ、小作人に農地を分け与えた。これによって、資産家は没落した一方、多くの新興農家が生まれ、小作農であった彼らの経済基盤は大幅に向上された。ただし、農地が個人に分散されたため、画一的な大規模農業が不可能となり、日本の食料自給率低下の原因とされる。また土地を得た農民は保守政権の強固な支持層となった上、農地の強制収用の過程で、これを違法に逃れるものも多かった。
学制改革
都道府県に大学が創設される等、教育の一般化が行われた。
文化、思想 [編集]
言論の自由
GHQは言論及ビ新聞ノ自由ニ関スル覚書(SCAPIN-16)やプレスコード、ラジオコード(SCAPIN-43)等を発して民間検閲支隊などにより新聞雑誌などあらゆる出版物、放送や手紙、電信電話、映画などへの検閲を行った。連合国の批判、占領軍の政策や極東国際軍事裁判を批判したもの、軍国主義的とされるもの、戦前・戦中の日本を擁護するもの、日本の価値観を肯定するもの、検閲が行われていることへの言及などは発行禁止や記述の削除、書き換えを行い、言論を統制。検閲は秘匿される一方、日本政府による統制を廃止させ、言論の自由を強調した。なお、新聞、ラジオ、雑誌の事前検閲は1948年7月までに廃止され、事後検閲に切り替わり、新聞、ラジオの事後検閲は1949年10月をもって廃止された。プレスコードによる言論統制は依然として存在したが、ジャーナリズムの活動は広がりつつあった[2]。
伝統文化の排斥
軍国主義思想の復活を防ぐという名目で剣道や歌舞伎、神道など伝統文化のうち「好戦的」あるいは「民族主義的」とされるものについて活動停止や組織解散や教則書籍の焚書などを行った。これらの措置の大部分は日本文化に対する無知、無理解を元にした措置であり、一部は占領中に、また主権回復後におおむね旧に復している。文学作品に日本神話について記述したものは検閲により削除された[3]。
世論対策
占領軍として進駐していたアメリカ軍の兵士が、ガムやチョコレートを食糧難に喘ぐ少年たちに与える事により、「無辜の民を殺戮した」残虐な日本軍と、「食べ物を恵んでくれた寛大なアメリカ軍」という図式を作り、親米感情の醸成を試みた。また同時期にアメリカ映画の上映やラジオにおける英語講座の開設など、メディアを使ったキャンペーンを展開した。
その一方で占領軍兵士による強盗や強姦、殺人などの重大事件に対しては報道管制を敷いてこれを隠ぺいし、反米感情が起こることを防いだ他、占領軍兵士による性犯罪を防ぐために占領軍兵士のための慰安所を各地につくった。後に、GIベビーと呼ばれる占領軍兵士と日本人女性との混血児が大量に生まれることになる。
宗教の自由
第二次世界大戦まで禁止されていた新興宗教が解禁され、治安維持法により逮捕されていたこれらの宗教の開祖などの指導者も釈放された。
領土 [編集]
外地など領土の剥奪
ポツダム宣言には「日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ」とされ、日本が統治していた地域のうち、外地(台湾・朝鮮)・租借地(関東州)・委任統治区域(南洋群島)を失った。
また内地についても、南樺太・千島列島が占領され、南西諸島、小笠原諸島、伊豆諸島についても施政権が停止された(後に施政権を回復)。
第二次世界大戦で日本軍が連合国軍(英、米、蘭、仏)を追い出し、その後釜に座る形で占領していた東南アジアの国々は、日本軍が敗れた後、宗主国でもある勝戦国(英、米、蘭、仏)が再度植民地とした。しかし、日本の教育を受けた者や、抗日の独立指導者が中心となって、各地で独立宣言が行われた。宗主国との戦争を経て、ほぼ全ての国が独立した。
マッカーサーへの手紙 [編集]
占領期を通じて、日本国民から連合国軍への手紙は50万通に及んだ。手紙の内容は復員に関する要望・嘆願、天皇制や民主主義に関する意見、などであった。

書簡の一例
一九四六年三月三〇日 ○○行平 三重県志摩郡磯部村
拝啓 小生昨年以来度々低級な投書を致して御迷惑をお掛け申せし処此の度は却つておとがめも無く礼状を頂きまして誠に限りなき御同情に感謝致して居ります。つきましては最近日本政府の発表しました憲法改正草案は私の今後の生活に重大関係を有しますので参考のため意見を申上げて見たいと存じます。
天皇制の存続に就いて私は絶対反対では有りませんが日本政府の今日の計画のみでは甚だ危険と思つて居ります。何故かと申せば天皇は従来と同じく政治責任者或は官吏の忠誠心に対する確認の機関として依然日本天皇の特権が元首に於て遂行されるからであります。故に結局狂人でない限り時勢の波に乗つて政権を獲得すれば天皇も同じく時勢の動向に左右されて単純なる忠誠心に元首としての役割を制約されるからであります。(以下略)

年表 [編集]
凡例

月日 日本に関係のある出来事、日本国内の出来事。
月日 直接日本には関係しない世界の出来事。
1945年

戦艦ミズーリ
東京湾に停泊する戦艦ミズーリ上で降伏文書調印(中央で署名を行っているのは重光葵外務大臣、左後方に侍しているのは加瀬俊一8月14日 日本がポツダム宣言受諾の旨を中立国を通じて通告し、勅語を発布する。
8月15日 国民に向けての玉音放送支那派遣軍南方軍がこれに抗議。連合国軍は攻撃停止。しかしアメリカ軍はこの日まで攻撃を続けていた。鈴木貫太郎内閣総辞職
8月16日 日本政府、陸海軍に停戦を命じる(中国大陸では9月半ばまで中華民国軍と戦闘が続く)。ソビエト連邦軍ヤルタ協定に基づいて南樺太満州へ侵攻を開始し、日本軍抗戦(停戦令出る)。
8月17日 東久邇宮稔彦王臨時内閣成立。天皇支那派遣軍南方軍に停戦の勅旨。連合国軍の許可を得て皇族をサイゴンシンガポール・南京・北京・新京に派遣。
8月17日 インドネシアがオランダから独立宣言(インドネシア独立戦争 - 1949年)。
8月18日 ソ連軍が千島列島へ侵略を開始。占守島で日本軍交戦(21日停戦令出る)。満州国消滅。
8月19日 関東軍ソ連極東軍が停戦交渉開始。フィリピンに停戦命令が届く。河辺虎四郎参謀次長と米サザランド参謀長による降伏手続打合せの会合がマニラで行われる。
8月26日 終戦連絡中央事務局設置。このころ、満州での戦闘が終わる。
8月28日 テンチ米陸軍大佐以下150名が横浜に初上陸し、横浜に連合国軍本部を設置。以後、全国で人員と物資の上陸相次ぎ、進駐兵力は最大で43万人となる。特殊慰安施設協会が設立される。
8月28日 中華民国中国国民党蒋介石らと中国共産党毛沢東周恩来が会談(10月10日に双十協定が成立)。
8月30日 アメリカ合衆国陸軍マッカーサー元帥が神奈川県厚木飛行場に到着。車両で当初の予定地である葉山御用邸を変更し、長後街道、国道1号経由で横浜に入る。
9月2日 日本政府が戦艦ミズーリで降伏文書調印。第二次世界大戦が正式に終結GHQ指令第一号(陸海軍解体、軍需生産の全面停止等)が出る。朝鮮の日本軍に対し、北緯38度を境に対米ソ降伏を命令。台湾島中華民国、旧満州国と千島列島・南樺太ソビエト連邦南洋諸島アメリカがそれぞれ併合または信託統治へ。東南アジア占領地は旧宗主国により植民地へ。
9月2日 ベトナムがフランスからの独立を宣言。
9月3日 フィリピンの日本軍降伏。重光・マッカーサー会談により間接統治の方向性を確認。
9月5日 第88回帝国議会臨時会議を召集。ソ連軍が歯舞群島までを不当占領(後に北方領土問題となる)。瀬島龍三など関東軍首脳部がハバロフスクへ送られ、将兵57万人がシベリア抑留となる。
9月6日 帝国議会マッカーサーに対し「天皇と日本政府の統治の権限は貴官の下に置かれる」と通達。
9月8日 連合国軍、東京に進駐する。以後、都内の建物600箇所以上を接収。
9月10日 「言論及ビ新聞ノ自由ニ関スル覚書」(SCAPIN-16)発令。連合国軍が検閲を始める。『在日朝鮮人連盟』中央準備会が設立される。
9月11日 マッカーサー東條英機A級戦犯容疑者39人の逮捕を命令(東條、自決に失敗)。
9月13日 大本営を廃止。
9月14日 GHQ同盟通信社に業務停止命令。
9月15日 東京・日比谷の第一生命相互ビル(現、DNタワー21、第一・農中ビル)を接収。民間検閲支隊長、同盟通信社の海外放送禁止、100%の検閲実施を表明。
9月16日 連合国軍本部が横浜から第一生命相互ビルに移転。
9月17日 マッカーサー、東京の本部に入り、日本進駐が順調なことから「進駐兵力は20万人に削減できる」と声明(米国の許可無く発言し、トルーマン大統領が疑念を抱く)。
9月18日 GHQ朝日新聞に対する二日間の発行停止を命令(SCAPIN-34)
9月19日 プレスコードが出される。
9月20日 緊急勅令『「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ関スル件』公布、即日施行。
9月22日 放送に対する検閲、ラジオコード(SCAPIN-43)を指令。米国政府、「降伏後ニ於ケル米国ノ初期ノ対日方針」発表。
9月27日 昭和天皇マッカーサーを訪問(直立不動の天皇と楽な姿勢のマッカーサー、2人並んだ写真が新聞に公開され、天皇を神と仰いでいた国内に衝撃を与える)。日本の漁獲水域を指定、いわゆるマッカーサー・ライン(北緯45度東経145度から北緯45度30分東経145度、歯舞群島を避けて東経150度、北緯26度東経150度、北緯26度東経123度、北緯32度東経125度、対馬を経て北緯40度東経135度、北緯45度東経140度を結ぶ線内)。
9月29日 内務省による検閲制度の廃止を指示。
9月30日 進駐軍、「朝鮮人連盟発行の鉄道旅行乗車券禁止に関する覚書」を通達。
10月1日 進駐軍、「連合国、中立国、敵国の定義に関する覚書」を通達。朝鮮・台湾など旧植民地出身者が日本国籍から離脱。
10月2日 連合国軍最高司令官総本部(GHQ/SCAP)設置。一般命令第4号により日本人に敗北と戦争に関する罪、責任などを周知徹底せしめることを勧告(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)。
10月4日 自由の指令(「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の除去の件(覚書)」、「政治警察廃止に関する覚書」)発令。“絶対主義天皇制批判者への治安維持法適用と処罰”を明言した内務大臣山崎巌の罷免を要求。同日、マッカーサーは東久邇内閣の国務大臣である近衛文麿憲法改正を示唆。
10月5日 東久邇宮内閣は内務大臣・山崎巌の罷免を不信任と受け総辞職。
10月8日 GHQが、朝日新聞毎日新聞讀賣報知、日本産業経済、東京新聞の在京5紙に対して事前検閲を開始。
10月9日 幣原喜重郎内閣発足。
10月10日 徳田球一共産党員など政治犯10数名が釈放。人民大会がデモ行進と総司令部前で万歳。
10月11日 女性の解放と参政権の授与、労働組合組織化の奨励と児童労働の廃止、学校教育の自由化、秘密警察制度と思想統制の廃止、経済の集中排除と経済制度の民主化を指示。
10月15日 治安維持法の廃止。国内の日本軍、武装解除を完了。
10月20日 日本共産党が機関紙「赤旗」再刊。

国際連合が発足
10月24日 国際連合憲章によって国際連合が発足する。
10月31日 GHQ軍国主義を唱える教員の追放および同盟通信社の解体を指令。
11月2日 日本社会党結党。GHQ、財閥資産の凍結および解体を指令。
11月6日 日本自由党結党(旧政友会系)。持株会社解体令(三井、三菱、住友、安田の四大財閥を解体するという政府案をGHQ/SCAPが承認、いわゆる「財閥解体指令」)。
11月16日 日本進歩党結党(旧民政党系)。
11月18日 皇族資産凍結の指令。
11月30日 陸軍省海軍省を廃止。

海軍省が廃され第二復員省が発足12月1日 陸軍省改め第一復員省海軍省改め第二復員省が発足。日本共産党が第4回党大会を開催。
12月6日 近衛文麿木戸幸一など民間人9人の逮捕を命令。
12月7日 いわゆる農地解放指令(農地の小作人への分配)。マニラ軍事裁判において山下奉文大将の死刑判決。
12月8日 太平洋戰爭史を全国の新聞へ連載させる。
12月9日 農地改革を指示。GHQによる「眞相はかうだ」の放送が始る。
12月15日 神道指令を指示(国教分離など)。
12月16日 近衛文麿が服毒自殺。
12月18日 日本協同党結党。幣原内閣、衆議院を解散。
12月22日 昭和天皇が史上初の記者会見。
12月31日 「修身、日本歴史及ビ地理停止ニ関スル件」(覚書)(SCAPIN-519)を発令。修身、国史、地理の授業は中止、教科書は蒐集される。
1946年
1月1日 天皇神格否定の勅諭。(「人間宣言」)
1月4日 軍人・戦犯および軍国主義者とみなした政治家・大学教授・企業経営者などの公職追放を指示。
1月25日 幣原首相、マッカーサーと会談。
2月1日 毎日新聞が政府の新憲法草案をスクープ(GHQの反応を見る為にわざと流したとの説もある[誰?])。英連邦軍、日本への進駐を開始。
2月2日 ソ連が全樺太と全千島列島の領有を宣言。
2月3日 マッカーサー、民政局長コートニー・ホイットニーに自作の憲法案のメモを渡し、憲法モデルを作成するよう命じる。
2月13日 ホイットニー局長、新憲法モデル文章を吉田茂らに見せる。
2月19日 昭和天皇川崎市横浜市の市民を訪問。以後、全国を訪問する。
2月20日 ソ連樺太・千島の領有を宣言する。
2月25日 新旧円の交換開始。
2月26日 極東委員会発足。
3月5日 第一次アメリカ教育使節団来日。
3月5日 英元首相チャーチルが「鉄のカーテン」発言(冷戦の始まり)。
3月6日 日本政府、「憲法改正草案要綱」(戦争の放棄、象徴天皇主権在民)を公表。
3月22日 日本政府の行政区域を対馬種子島、伊豆諸島までに限る(北緯30度以南の南西諸島と小笠原諸島を分離して米軍統治下に置く)。
4月5日 対日理事会発足。
4月10日 新選挙法に基づく衆議院議員総選挙投票率73パーセント、自由党が第一党となるも過半数に届かず。加藤シヅエ山口シヅエ・戸叶里子・松谷天光光・近藤鶴代ら、日本初の女性国会議員が39名当選。
4月17日 幣原内閣、新憲法草案を発表。
4月22日 幣原内閣総辞職
4月29日 天皇誕生日A級戦犯29名を起訴。
5月1日 11年ぶりのメーデー。およそ100万人が集まる。
5月3日 極東国際軍事裁判東京裁判)開廷。
5月4日 鳩山自由党総裁

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オープンキャンパス(私立=関東)(2008年[4月〜12月]) 出典:大学ランキング】

【私立大学一覧(関東)】23+30+206+91+119+37+7+55=477  
【関東】206 
[1位]=早稲田大学=[5万2797名]=政治経済・法・文化構想・文・教育・商・基礎理工・創造理工・先進理工・人間科・スポーツ科・国際教養=4万7654名
[2位]=日本大学=[4万7589名]=法・文理・経済・商・芸術・国際関係・理工・生産工・工・医・歯松戸歯・生物資源・薬イコール6万6581名
[3位]=明治大学=[4万4108名]=法・商・政治経済・経営・情報コミュニケーション・文・国際日本・理工・農=2万8702名
[5位]=立教大学=[3万6700名]=文・異文化コミュニケーション・経済・経営・理・社会・法・観光・コミュニティ福祉・現代心理=1万7304名
[6位]=法政大学 =[3万4008名]=法・文・経済・理工・生命科・社会・経営・国際文化・人間環境・現代福祉=2万8018名
[7位]=東洋大学=[2万9878名]=文・経済・経営・法・社会・理工・国際地域・生命科・ライフデザイン・総合情報=2万7678名
[9位]=青山学院大学=[2万5884名]=教育人間科・文・総合文化政策・経済・法・経営・国際政治経済・社会情報・理工=1万8495名
[10位]=慶應義塾大学=[2万3566名]=文・経済・法・商・医・理工・総合政策・環境情報・看護医療・薬=2万8507名
[12位]=中央大学=[2万1154名]=法・経済・商・理工・文・総合政策=2万5991名
[13位]=上智大学=[2万138名]=神・文・総合人間科・法・経済・外国語・国際教養・理工=1万702名
[14位]=東海大学=[1万9531名]=国際文化・生物理工・芸術工・情報通信・文・政治経済・法・教養・理・情報理工・工・体育・医・健康科・開発工・海洋・総合経営・産業工・農=2万8783名
[17位]=帝京大学=[1万5468名]=医・薬・経済・法・文・外国語・理工・医療技術・福岡医療技術=2万3465名
[19位]=神奈川大学=[1万4753名]=法・経済・経営・外国語・人間科・理・工=1万7798名
[22位]=駒澤大学=[1万4122名]=仏教・文・経済・法・経営・医療健康科・グローバルメディアスタディーズ=1万6312名
[21位]=玉川大学=[1万4141位]=教育・芸術・文・経営・農・工・リベラルアーツ=7408名
[23位]=学習院大学=[1万3581名]=法・経済・文・理=7840名
[27位]=東京家政大学=[1万2910名]=家政・人文=4646名
[28位]=成蹊大学=[1万2599名]=経済・法・文・理工=7918名
[29位]=大妻女子大学=[1万2509名]=家政・文・社会情報・人間関係・比較文化=6605名
[30位]=専修大学=[1万2366名]=経済・法・経営・商・文・ネットワーク情報=2万149名
[32位]=立正大学=[1万1757名]=心理・地球環境科・社会福祉・法・経営・経済・文・仏教=1万98名
[33位]=明治学院大学=[1万1616名]=文・経済・社会・法・国際・心理=1万2182名
[35位]=国士舘大学=[1万1228名]=政経・体育・理工・法・文・21世紀アジア=1万3536名
[37位]=東京理科大学=[1万1000名]=理・工・薬・理工・基礎工・経営=1万7677名
[41位]=共立女子大学 =[1万194名]=家政・文芸・国際=4305名
[43位]=東京農業大学=[9867名]=農・応用生物科・地域環境科・国際食料情報・生物産業=1万1806名
[44位]=日本女子大学=[9707名]=家政・文・人間社会・理=6288名
[45位]=國學院大學=[9678名]=文・神道文化・法・経済・人間開発=9863名
[47位]=文教大学=[9105名]=教育・人間科・文・情報・国際=8256名
[52位]=獨協大学=[8873名]=外国語・国際教養・経済・法=8898名
[56位]=桜美林大学=[8475名]=リベラルアーツ・ビジネスマネージメント・健康福祉・総合文化=7985名
[59位]=千葉工業大学=[8219名]=工・情報科・社会システム科=9299名 [60位]=聖徳大学=[8218名]=児童・人文・音楽=3895名
[64位]=亜細亜大学=[7902名]=経営・経済・法・国際関係=5942名
[65位]=北里大学=[7830名]=薬・獣医・医・海洋生命科・看護・理・医療衛生=7368名
[66位]=武蔵野大学=[7500名]=文・政治経済・人間関係・環境・薬・看護=5278名
[67位]=成城大学=[7164名]=経済・文芸・法・社会イノベーション=5630名
[69位]=昭和女子大学=[6907名]=人間文化・人間社会・生活科=4159名
[71位]=武蔵大学=[6868名]=経済・人文・社会=4355名
[75位]=多摩美術大学=[6526名]=美術・造形表現(夜間)=4494名
[76位]=明星大学=[6484名]=人文・日本文化・経済・情報・理工・造形芸術=7495名
[77位]=東京電機大学=[6300名]=未来科・工・理工・情報環境=8825名
[84位]=拓殖大学=[5877名]=商・政経・外国語・国際・工=1万260名
[87位]=東京工科大学=[5629名]=コンピュータサイエンス・応用生物・メディア=5873名
[96位]=女子栄養大学=[5250名]=栄養=2105名
[97位]=実践女子大学=[5205名]=文・生活科・人間社会=3690名
[98位]=国際基督教大学=[5200名]=教養=2850名
[100位]=芝浦工業大学=[5100名]=工・システム理工・デザイン工=6706名
[101位]=武蔵野美術大学=[5075名]=造形=4247名
[104位]=神田外語大学=[4903名]=外国語=3483名
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【●●県立■■■高校 進路状況】=[2009-●-●●現在] 進路指導室 
【私立大学一覧(関東)】23+30+206+91+119+37+7+55=477  
【関東】206 茨城キリスト教大学 筑波学院大学 つくば国際大学 常磐大学 流通経済大学 足利工業大学 宇都宮共和大学 国際医療福祉大学 作新学院大学 自治医科大学 獨協医科大学 白鴎大学 文星芸術大学
関東学園大学 共愛学園前橋国際大学 桐生大学 群馬社会福祉大学 群馬パース大学 上武大学 創造学園大学 高崎健康福祉大学 高崎商科大学 東京福祉大学 跡見学園女子大学 浦和大学 共栄大学 埼玉医科大学 埼玉学園大学 埼玉工業大学 十文字学園女子大学 城西大学 尚美学園大学 女子栄養大学 駿河台大学 聖学院大学 西武文理大学 東京国際大学 東都医療大学 東邦音楽大学 獨協大学 日本医療科学大学
日本工業大学 日本薬科大学 人間総合科学大学 文教大学 平成国際大学 武蔵野学院大学 明海大学 ものつくり大学国学園大学 植草学園大学 江戸川大学 川村学園女子大学 神田外語大学 敬愛大学
国際武道大学 三育学院大学 秀明大学 淑徳大学 城西国際大学 聖徳大学 清和大学 千葉科学大学 千葉経済大学 千葉工業大学 千葉商科大学 中央学院大学 帝京平成大学 東京基督教大学 東京歯科大学
東京情報大学 東京成徳大学 日本橋学館大学 了徳寺大学 麗澤大学 和洋女子大学 LEC東京リーガルマインド大学 青山学院大学 亜細亜大学 大妻女子大学 桜美林大学 嘉悦大学 学習院大学 学習院女子大学
北里大学 共立女子大学 杏林大学 国立音楽大学 慶應義塾大学 恵泉女学園大学 工学院大学 國學院大學 国際基督教大学 国士舘大学 こども教育宝仙大学 駒澤大学 駒沢女子大学 産業能率大学 実践女子大学 芝浦工業大学 順天堂大学 上智大学 昭和大学 昭和女子大学 昭和薬科大学 白梅学園大学 白百合女子大学 杉野服飾大学 成蹊大学 成城大学 聖心女子大学 清泉女子大学 聖母大学 聖路加看護大学 専修大学 創価大学 大正大学 大東文化大学 高千穂大学 拓殖大学 多摩大学 玉川大学 多摩美術大学 中央大学 津田塾大学 帝京大学 デジタルハリウッド大学 東海大学 東京有明医療大学 東京医科大学 東京医療保健大学 東京音楽大学 東京家政大学 東京家政学院大学 東京経済大学 東京工科大学 東京工芸大学 東京慈恵会医科大学 東京純心女子大学 東京女学館大学 東京女子大学 東京女子医科大学 東京女子体育大学
東京神学大学 東京聖栄大学 東京造形大学 東京電機大学 東京都市大学 東京農業大学 東京富士大学 東京未来大学 東京薬科大学 東京理科大学 東邦大学 桐朋学園大学 東洋大学 東洋学園大学 二松学舎大学 日本大学 日本医科大学 日本歯科大学 日本社会事業大学 日本獣医生命科学大学 日本女子大学 日本女子体育大学 日本赤十字看護大学 日本体育大学 日本文化大学 文化女子大学 文京学院大学 法政大学 星薬科大学 武蔵大学 武蔵野大学 武蔵野音楽大学 武蔵野美術大学 明治大学 明治学院大学 明治薬科大学 明星大学 目白大学 立教大学 立正大学 ルーテル学院大学 和光大学 早稲田大学 麻布大学 神奈川大学 神奈川工科大学 神奈川歯科大学 鎌倉女子大学 関東学院大学 相模女子大学 松蔭大学 湘南工科大学 昭和音楽大学 女子美術大学 聖マリアンナ医科大学 洗足学園音楽大学 鶴見大学 田園調布学園大学 桐蔭横浜大学 東洋英和女学院大学 フェリス女学院大学 横浜商科大学 横浜薬科大学   [参考文献]=google[高大連携情報誌  オープンキャンパス 参考文献]
                                                          

立命館アジア太平洋大学

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立命館アジア太平洋大学

出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

立命館アジア太平洋大学

A棟・B棟・正面玄関
大学設置/創立 2000年
学校種別 私立
設置者 学校法人立命館
本部所在地 大分県別府市十文字原1-1
キャンパス 大分県別府市十文字原1-1
学部 アジア太平洋学部
国際経営学
研究科 アジア太平洋研究科
経営管理研究科
ウェブサイト 立命館アジア太平洋大学公式サイト
表・話・編・歴
立命館アジア太平洋大学(りつめいかんアジアたいへいようだいがく、英語: Ritsumeikan Asia Pacific University)は、大分県別府市十文字原1-1に本部を置く日本の私立大学である。2000年に設置された。大学の略称はAPU。

目次 [非表示]
1 概観
1.1 建学の精神
1.2 タグライン
2 沿革
3 教育および研究
3.1 組織
3.1.1 学部
3.1.1.1 アジア太平洋学部
3.1.1.2 国際経営学
3.1.1.3 クロスオーバー・アドヴァンスト・プログラム
3.1.2 大学院
3.1.3 附属機関
3.2 研究支援事業採択一覧
3.2.1 文部科学省
3.2.2 経済産業省
3.2.3 経済産業省及び文部科学省
3.2.4 国立情報学研究所
4 特徴
4.1 日英二言語教育システム
4.2 言語教育センター
4.3 アクティブ・ラーニング
4.4 入学制度/卒業制度
4.4.1 APUの特徴的な入学制度
5 大学関係者と組織
5.1 アドバイザリー・コミッティ
6 施設
6.1 APハウス
7 対外関係
7.1 国内交流協定
7.1.1 大学
7.1.2 高大連携
7.1.3 地方自治
7.1.4 産学連携
7.2 海外交流協定
7.2.1 共同学位プログラム
7.3 オフィス
7.3.1 国内オフィス
7.3.2 海外オフィス
8 系列校
9 関係校
10 歴代学長
11 脚注
12 外部リンク

概観 [編集]

キャンパス全体像


建学の精神 [編集]
建学の精神は『自由と清新』。基本理念に「自由・平和・ヒューマニズム」、「国際相互理解」、「アジア太平洋の未来創造」を掲げる。

タグライン [編集]
"Shape Your World" - 80を超える国・地域からAPUに集まる学生が「自身・世界を創造する姿」のイメージを明示するものとして2008年に制定された[1]。




沿革 [編集]
1995年 学校法人立命館が新大学設置準備委員会を発足。
1996年 立命館アジア太平洋大学設置期成同盟会設立総会開催。アジア太平洋研究センター発足。新大学設置委員会発足。大学名称が「立命館アジア太平洋大学」に決定する。アドバイザリー・コミッティ100名に到達。アジア太平洋地域の6カ国11大学・研究機関と大学間協定合同締結式を開催。立命館アジア太平洋研究センター(RCAPS: Ritsumeikan Center for Asia Pacific Studies、「アール・キャップス」と読む)を設立。
1997年 「アジア太平洋学研究会」発足。立命館アジア太平洋大学設置基本協定調印式が行われる。立命館アジア太平洋大学設置事業造成工事起工式を挙行。
1998年 文部省へ設置認可申請書を提出。韓国・ソウルに事務所を開設。インドネシア事務所開所式。アドバイザリー・コミッティが200名に到達。立命館アジア太平洋大学建築工事起工式を挙行。
1999年 シンボルマークが決定する。「APUからの提案」を発表。立命館アジア太平洋大学建築工事上棟式を挙行。立命館アジア太平洋大学が文部大臣の設置認可を受ける。
2000年 立命館アジア太平洋大学初代学長に坂本和一立命館副総長が就任。立命館アジア太平洋大学・竣工式を挙行。立命館アジア太平洋大学開学、日本を含む28カ国・地域から719名が第一期生として入学。アジア太平洋学部(APS)・アジア太平洋マネジメント学部(APM)を設置。APU開学式典開催。APU Festival開催。
2003年 立命館アジア太平洋大学大学院開設。大学院アジア太平洋研究科・経営管理研究科を設置。APU校友会結成。第1回学園祭「天空祭」が開催される。
2004年 第一期生卒業式。
2005年 Homecoming Day 第一回APU校友会総会を開催。収容定員の増加に関わる学則変更認可により入学定員が、アジア太平洋学部445名から650名、アジア太平洋マネジメント学部445名から600名へと増加し、学部全体の収容定員が5,000名となる。
2006年 大分大学と包括的交流協定を締結。国際社会貢献センター(ABIC:Action for a Better International Community)と学術交流協定を締結。インスティテュート「Crossover Advanced Program」設置。大学院アジア太平洋研究科に「日独共同修士プログラム:国際原料流通マネジメントプログラム(IMAT)」を開設。
2007年 ニューチャレンジに伴う建設事業竣工式。日本の教育機関では初となる世界観光機関UNWTO)と、「アジア太平洋地域のツーリズムおよびホスピタリティマネジメントに関する教育、研究そして業界支援活動を相互協力するための覚書」を締結。株式会社大分銀行と「連携・協力に関する協定」を締結。株式会社大分放送と学術交流協定を締結。教室棟、研究棟、スチューデントユニオン、APハウス(学生寮)を増築し、2月に竣工。2007年度より共用開始。
2008年 南部陽一郎アカデミック・アドバイザー、ノーベル物理学賞受賞。
2009年 アジア太平洋マネジメント学部を国際経営学部に名称変更。
2009年 スタンフォード大学と新エネルギー研究協定を締結[2]
教育および研究 [編集]
組織 [編集]
学部 [編集]
アジア太平洋学部 [編集]
文化・社会の多様性の中で複雑化するアジア太平洋地域の秩序形成や持続性について「社会学」「国際関係論」「地域研究」をベースに学ぶ。略称は「APS」(College of Asia Pacific Studies)。学位は、学士(アジア太平洋学)。
アジア太平洋学科
比較社会・文化クラスタ
Comparative Society and Culture
環境資源政策クラスタ
Environmental Resource Policy
国際社会ガバナンスクラスタ
International Governance
持続可能開発クラスタ
Sustainable Development
国際経営学部 [編集]
ダイナミックに発展するアジア太平洋地域のビジネス社会において、新たな価値の創造を実践できるリーダーに必要とされる経営学を学ぶ。略称は「APM」(Ritsumeikan Asia Pacific University, College of International Management)。学位は、学士(経営学)[3]。
アジア太平洋マネジメント学科
マーケティングと企業戦略分野
Marketing and Corporate Strategy
国際ビジネスと比較経営分野
International Business and Comparative Management
会計とファイナンス分野
Accounting and Finance
ニュービジネスとイノベーション分野
New Business and Innovation
クロスオーバー・アドヴァンスト・プログラム [編集]
クロスオーバー・アドヴァンスト・プログラムの学生はAPSAPMのいずれかに所属し、それぞれの専門領域の学修を基礎に両学部を融合(クロスオーバー)した5つの領域を学修する。学部や大学院間の垣根を取り払い、高度な教育・研究環境を提供するために創設された。略称は「CAP」(CAP: Crossover Advanced Program)。
ツーリズム&ホスピタリティインスティテュート
Tourism & Hospitality Institute
APSの観光学とAPM経営学部を学際的に融合し、ホスピタリティを提供するあらゆるサービス産業について政策的・戦略指向型の教育を行っている。
健康・環境・生命インスティテュート
Health, Environment and Life Sciences Institute
自然生態系と人間生態系の保全とセキュリティ構築や新たな環境創造に寄与できる人材の教育を行っている。
国際戦略インスティテュート
International Strategy Institute
アジア太平洋地域の政治的・文化的多様性による政治体制間の諸問題の本質を正確に捉え、国際機関等で実行力を持って問題解決に当たることのできる政策指向型教育を行っている。
ICTインスティテュート
Information and Communications Technology Institute
社会科学系と情報・理工系の知識とセンスを兼ね備え、ソフトウェアとハードウェアを組みあわせることで情報化社会のシステム構築などICT分野の「技術教養型人材」育成を主眼とする。
言語文化インスティテュート
Language and Culture Institute
異文化理解能力を備え、言語文化的側面からアジア太平洋地域を社会学経営学などの専門領域から分析・研究できる人材の育成を主眼とする。
大学院 [編集]
大学院は、学部教育の延長上にアジア太平洋研究科と経営管理研究科(経営大学院 MBA)が設置されている。前者にはアジア太平洋学専攻(博士前期・後期課程)と国際協力政策専攻(博士前期課程)が置かれ、修了すればそれぞれ修士(アジア太平洋学)・博士(アジア太平洋学)あるいは修士(国際協力政策)が得られる。後者には経営管理専攻が置かれ、こちらは修士経営管理)の学位が取得できる。なお授業はすべて英語でおこなわれている。

アジア太平洋研究科 GSA: Graduate School of Asia Pacific Studies
アジア太平洋学専攻(博士前期課程、博士後期課程 [Major] APS: Master's/Doctorate In Asia Pacific Studies
現代日本研究プログラム(博士前期課程) [Degree]: MajorMaster of Science in Asia Pacific Studies
国際協力政策専攻(博士前期課程) [Degree]: ICP: Master's in International Cooperation Policy
健康マネジメントプログラム(博士前期課程) [Degree]: Master of Science in International Cooperation Policy (Public Health Management)
国際原料流通マネジメントプログラム(修士課程) [IMAT]: International Material Flow Management Program)
日独共同修士環境管理プログラム Japan-Germany Dual Master's Degree Program in Environmental Management
経営管理研究科 MBA: Graduate School of Management
経営管理専攻(修士課程)
移行経済・経営システム・デザインプログラム Comparative Institution Design for Transition Economy and Business Management
附属機関 [編集]
APUライブラリー
APUメディアセンター
立命館アジア太平洋研究センター [RCAPS]: Ritsumeikan Center for Asia Pacific Studies
グローバル・ムーブメント Global Movement Studies
リソース・セキュリティ Resource Security
ヒューマン・ケイパビリティとイノベーション Human Capability and Innovation
言語教育センター Center for Language Education
国際協力・研究部
立命館アジア太平洋大学孔子学院
研究支援事業採択一覧 [編集]
文部科学省 [編集]
現代的教育ニーズ取組支援プログラム
2007年 学生力を活用した地域への還元教育システム−地域と学生が一緒に創る、別府・泉都観光ルネサンス・プログラム−
2006年 グローバル人材養成のためのキャリア教育
2004年 JWP: Japan & World Perspectives Program
大学院教育改革支援プログラム
2007年 立命館アジア太平洋大学MBAプログラム
新たな社会的ニーズに対応した学生支援プログラム
2007年 学生による若者と社会のための自主活動支援
国費外国人留学生(研究留学生)の優先配置を行う特別プログラム
2007年 革新と創造をもたらす『イノベーションと技術経営』人材育成プログラム
2006年 日本−EU/文理にまたがる大学院共同学位プログラム
2006年 移行経済・経営システム・デザインプログラム
大学教育の国際化推進プログラム
2005年 グローバル・アクティブ・ラーニングの開発(知識・経験・交流を連携させた教育プログラムの開発)
特色ある大学教育支援プログラム
2003年 多言語環境における日英二言語教育システム
経済産業省 [編集]
電源地域サービス産業人材育成事業
2005年 観光経営人材育成プログラム開発プロジェクト
経済産業省及び文部科学省 [編集]
アジア人財資金構想
2007年 グローバルビジネスリーダー育成プログラム
国立情報学研究所 [編集]
次世代学術コンテンツ基盤共同構築事業
特徴 [編集]
日英二言語教育システム [編集]
世界の様々な国や地域から学生が集い、日本で最も多くの外国人留学生が学ぶ大学である。延べ受入数は、まだ5000人程度であるが、現在籍者数の比較では日本一となり、2位の早稲田大学、3位の東京大学を上回る(平成20年5月現在)。加えて、教員の約半数が外国籍という多文化・多言語環境である、APUは英語と日本語による二言語教育システムを実践している。1・2年次は各学生の入学基準言語(英語または日本語)で基礎教育を学びつつ同時に言語習得に取り組む。3・4年次までには全学生が日本語と英語のいずれの言語でも専門教育が受けられる言語運用能力を涵養する。配付資料や掲示は日英二言語で表記され、ガイダンスも日本語と英語で行われる。そのため、一般的な私立大学と比較して、経営コストがかかる。APUの高額な学費は、この二言語教育システムによるものであるとの指摘もある。

言語教育センター [編集]
日本語・英語による正課プログラムのほかに、言語教育センターではアジア太平洋地域の6言語をカリキュラムで提供し、アクティブ・ラーニングなどのプログラムと連動させている。

アジア太平洋言語 Asia Pacific Language
アジア太平洋地域の言語は、中国語、韓国語、マレー語・インドネシア語スペイン語タイ語ベトナム語の6言語を入門レベルから上級レベルまで開講している。APUでは「AP言語」と呼ぶ。
アクティブ・ラーニング [編集]
「アクティブ・ラーニング(Active Learning)」は日本国内や世界各地における現地参加型学習の総称。APUでは学びの基本要素として「知識」「経験」「交流」の3つが重要だという考えのもと、実践的学習や体験を重視したプログラムとしてアクティブ・ラーニングを展開している。

インターンシップ(Internship)
企業、行政機関、NPONGOなどの実務経験を積み一定の条件を満たせば科目登録が可能。
交換留学(Study Abroad)
学生交換協定を締結している海外協定大学へ、1年もしくは1セメスターの期間留学する制度。
英語/AP言語イマージョンプログラム(English/AP Language Immersion Programs)
言語運用能力に重点を置いた海外研修プログラムで、APU独自のプログラムと、立命館大学と共同実施のプログラムがある。
フィールド・スタディ(Field Study)
教員とともに学外で調査活動を行う正課科目。現地で調査・分析に必要な技術を学ぶ。
テーマベース型プログラム(Theme Based Programs)
エコツーリズム」「環境」といったテーマ別にプログラムが組まれ、現地で調査活動などを行うプログラム。夏期・冬期の短期プログラムで実施している。
入学制度/卒業制度 [編集]
入学制度
APUでは年2回(春学期・秋学期)入学できるシステムになっている。
APUの特徴的な入学制度 [編集]
APUの特徴である「日英二言語教育システム」に早期に対応できる学生確保のため、現地日本語学校や海外主要高校と「協定校」関係を結び、各校の校長の推薦を受けた学生を選抜している。
主な推薦枠
海外協定校・海外日本人学校
海外政府派遣奨学生(2007年より、サウジアラビアから20名の受け入れを開始[4])
卒業制度
日本では学士課程の卒業に4年以上の在学が必要とされるが、APUでは成績優秀な者に対し、3年または3年半で卒業が可能な「早期卒業制度」を設けている。ただしCAP所属の学生は不可。
大学関係者と組織 [編集]
アドバイザリー・コミッティ [編集]
アドバイザリー・コミッティはAPUを支援する組織として1996年に設立され、メンバーは世界各国元首・大使をはじめ、日本を代表する経済界の要人で構成される。2007年1月現在で、名誉委員8名、インターナショナル委員10名、アンバサダーメンバー62名、世話人5名、代表世話人3名、委員199名の合計287名で構成される。

施設 [編集]
APハウス [編集]
APUにはAPハウスという寮があり、新入生の国際学生は全員がAPハウスに入る。日本の生活を知らない国際学生達でもここで生活することによって日本に慣れることができる。また日本の学生も1年次、APハウスに入ることができ(入試合格後、書類選考)、日本にいながら異文化の中で生活してお互いについて理解を深めることができる。(国際学生3:国内学生1の比)APハウスはAPUで学ぶことの魅力の一つである。RAという制度もあり、APハウスの中でリーダー的存在を担う。日本人の月額寮費は49000円、留学生は39000円である。なお、水道光熱費は寮費に含まれる。

APハウスはハウス1とハウス2に分けている。ハウス1にはウェスト棟、イースト棟とイーストツー棟、ハウス2はエル棟、アール棟とアールツー棟、合計六つがある。その中、イーストツー棟とアールツー棟の部屋はシェアタイプで、他の棟の部屋は個室である。

APハウスの共有施設として、お風呂、インターネット室、ロビーの無線ネット、ビリヤード(キューとボール付)、卓球(ラケットとボール付)、テーブルフットボール(ボール付)は無料で使える。

各フロアにはキッチン、シャワー室、倉庫がある。キッチンにはIHヒータ、テーブルと椅子がある。倉庫には共有の掃除機、アイロン、布団乾燥機が置いてある。

各部屋にはベット、机、椅子、冷蔵庫、エアコン、ランプ、布団(シーツ付)、電話、モデム(ネット使い放題)がある。その他、個室の部屋にはトイレ、洗面台もある。シェアタイプの部屋にはトイレと洗面台がないが、各フロアには設置している。

対外関係 [編集]
国内交流協定 [編集]
大学 [編集]
2000年 立命館大学
2004年 大学コンソーシアムおおいた
2006年 大分大学と協力協定を締結
高大連携 [編集]
2007年 立命館大学立命館アジア太平洋大学と学校法人岩田学園が「高大連携に関する協定」を締結。2008年4月から同法人の岩田中学校・高等学校に「立命館コース」を設置する。
地方自治体 [編集]
別府市まちづくり連携交流協定
2001年 大分県三重町(現・豊後大野市)と友好交流協定を締結。
2003年 大分県鶴見町(現・佐伯市)と友好交流協定を締結。
2003年 大分県臼杵市と友好交流協定を締結。
2004年 大分県別府市と友好交流協定を締結。
2004年 大分県蒲江町(現・佐伯市)と友好交流協定を締結。
2004年 大分県と友好交流協定を締結。
2005年 長野県飯田市と友好交流協定を締結。
2006年 大分県中津市と友好交流協定を締結。
2007年 大分県速見郡日出町と友好交流協定を締結。
2007年 大分県中津市山国町山国町商工会と研究交流協定を締結。
産学連携 [編集]
2007年 株式会社大分放送と学術交流協定を締結。
海外交流協定 [編集]
APUでは世界36の国・地域の105の大学と学生交換協定を結んでおり、留学制度が豊富にある(2008年12月末時点)。TOEFLである程度の点数(およそ550点程度)をとらなければならないが、それをクリアしさえすれば、留学しやすい環境である。 エコボランティア(オーストラリアなど)を単位認定してくれる制度もある。

共同学位プログラム [編集]
アメリカン大学(米国)への2年間の留学とAPUでの2年間の合計4年間で日米2大学の学位が取得できる。
慶熙大学(韓国)への2年間の留学とAPUでの2年間の合計4年間で日韓2大学の学位が取得できる。
オフィス [編集]
国内オフィス [編集]
東京オフィス Tokyo Office
立命館アカデメイア@大阪 Ritsumeikan Academia@Osaka
海外オフィス [編集]
韓国オフィス Office of Korea
立命館上海交通大学連絡処 Ritsumeikan Liaison Office located in Shanghai Jiao Tong University
台湾弁事処 Office of Taiwan
インドネシアオフィス Office of Indonesia
タイオフィス Office of Thailand
カナダオフィス Office of Canada
系列校 [編集]
大学
立命館大学
中学校・高等学校
立命館中学校・高等学校
立命館宇治中学校・高等学校
立命館慶祥中学校・高等学校
立命館守山中学校・高等学校
小学校
立命館小学校
関係校 [編集]
岩田高等学校(立命館コース)
歴代学長 [編集]
坂本和一(2000年1月 - 2004年3月)
モンテ・カセム(2004年4月 - 2009年12月)
是永駿(2010年1月 - )
脚注 [編集]
[ヘルプ]
^ APU Information (Vol 19): The APU tagline "Shaper your world" has been set." November 1, 2008
^ エコ・エネルギー研究で協定 2009年6月27日 大分新聞
^ April 24, 2008, APU Notice
^ サウジアラビア政府派遣学生受け入れ
外部リンク [編集]
ウィキメディア・コモンズには、立命館アジア太平洋大学に関連するカテゴリがあります。立命館アジア太平洋大学
受験生向け情報サイトAPUmate.net
立命館大学
APU韓国オフィス
APUカナダオフィス
[隠す]表・話・編・歴立命館

学校法人立命館により設置の大学 立命館大学 | 立命館アジア太平洋大学

同・高等学校 立命館高等学校 | 立命館宇治高等学校 | 立命館慶祥高等学校 | 立命館守山高等学校

同・中学校 立命館中学校 | 立命館宇治中学校 | 立命館慶祥中学校 | 立命館守山中学校

同・小学校 立命館小学校

その他 立命館孔子学院| 立命館アジア太平洋大学孔子学院

廃校 立命館大学短期大学部 | 立命館神山中学校・高等学校 | 宇治高等専修学校

関連項目 京都法政学校 | 立命館大学の人物一覧 | 立命館大学体育会硬式野球部 | 立命館大学パンサーズ | 立命館大学ラグビー

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立命館アジア太平洋大学

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立命館アジア太平洋大学

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立命館アジア太平洋大学

A棟・B棟・正面玄関
大学設置/創立 2000年
学校種別 私立
設置者 学校法人立命館
本部所在地 大分県別府市十文字原1-1
キャンパス 大分県別府市十文字原1-1
学部 アジア太平洋学部
国際経営学
研究科 アジア太平洋研究科
経営管理研究科
ウェブサイト 立命館アジア太平洋大学公式サイト
表・話・編・歴
立命館アジア太平洋大学(りつめいかんアジアたいへいようだいがく、英語: Ritsumeikan Asia Pacific University)は、大分県別府市十文字原1-1に本部を置く日本の私立大学である。2000年に設置された。大学の略称はAPU。

目次 [非表示]
1 概観
1.1 建学の精神
1.2 タグライン
2 沿革
3 教育および研究
3.1 組織
3.1.1 学部
3.1.1.1 アジア太平洋学部
3.1.1.2 国際経営学
3.1.1.3 クロスオーバー・アドヴァンスト・プログラム
3.1.2 大学院
3.1.3 附属機関
3.2 研究支援事業採択一覧
3.2.1 文部科学省
3.2.2 経済産業省
3.2.3 経済産業省及び文部科学省
3.2.4 国立情報学研究所
4 特徴
4.1 日英二言語教育システム
4.2 言語教育センター
4.3 アクティブ・ラーニング
4.4 入学制度/卒業制度
4.4.1 APUの特徴的な入学制度
5 大学関係者と組織
5.1 アドバイザリー・コミッティ
6 施設
6.1 APハウス
7 対外関係
7.1 国内交流協定
7.1.1 大学
7.1.2 高大連携
7.1.3 地方自治
7.1.4 産学連携
7.2 海外交流協定
7.2.1 共同学位プログラム
7.3 オフィス
7.3.1 国内オフィス
7.3.2 海外オフィス
8 系列校
9 関係校
10 歴代学長
11 脚注
12 外部リンク

概観 [編集]

キャンパス全体像


建学の精神 [編集]
建学の精神は『自由と清新』。基本理念に「自由・平和・ヒューマニズム」、「国際相互理解」、「アジア太平洋の未来創造」を掲げる。

タグライン [編集]
"Shape Your World" - 80を超える国・地域からAPUに集まる学生が「自身・世界を創造する姿」のイメージを明示するものとして2008年に制定された[1]。




沿革 [編集]
1995年 学校法人立命館が新大学設置準備委員会を発足。
1996年 立命館アジア太平洋大学設置期成同盟会設立総会開催。アジア太平洋研究センター発足。新大学設置委員会発足。大学名称が「立命館アジア太平洋大学」に決定する。アドバイザリー・コミッティ100名に到達。アジア太平洋地域の6カ国11大学・研究機関と大学間協定合同締結式を開催。立命館アジア太平洋研究センター(RCAPS: Ritsumeikan Center for Asia Pacific Studies、「アール・キャップス」と読む)を設立。
1997年 「アジア太平洋学研究会」発足。立命館アジア太平洋大学設置基本協定調印式が行われる。立命館アジア太平洋大学設置事業造成工事起工式を挙行。
1998年 文部省へ設置認可申請書を提出。韓国・ソウルに事務所を開設。インドネシア事務所開所式。アドバイザリー・コミッティが200名に到達。立命館アジア太平洋大学建築工事起工式を挙行。
1999年 シンボルマークが決定する。「APUからの提案」を発表。立命館アジア太平洋大学建築工事上棟式を挙行。立命館アジア太平洋大学が文部大臣の設置認可を受ける。
2000年 立命館アジア太平洋大学初代学長に坂本和一立命館副総長が就任。立命館アジア太平洋大学・竣工式を挙行。立命館アジア太平洋大学開学、日本を含む28カ国・地域から719名が第一期生として入学。アジア太平洋学部(APS)・アジア太平洋マネジメント学部(APM)を設置。APU開学式典開催。APU Festival開催。
2003年 立命館アジア太平洋大学大学院開設。大学院アジア太平洋研究科・経営管理研究科を設置。APU校友会結成。第1回学園祭「天空祭」が開催される。
2004年 第一期生卒業式。
2005年 Homecoming Day 第一回APU校友会総会を開催。収容定員の増加に関わる学則変更認可により入学定員が、アジア太平洋学部445名から650名、アジア太平洋マネジメント学部445名から600名へと増加し、学部全体の収容定員が5,000名となる。
2006年 大分大学と包括的交流協定を締結。国際社会貢献センター(ABIC:Action for a Better International Community)と学術交流協定を締結。インスティテュート「Crossover Advanced Program」設置。大学院アジア太平洋研究科に「日独共同修士プログラム:国際原料流通マネジメントプログラム(IMAT)」を開設。
2007年 ニューチャレンジに伴う建設事業竣工式。日本の教育機関では初となる世界観光機関UNWTO)と、「アジア太平洋地域のツーリズムおよびホスピタリティマネジメントに関する教育、研究そして業界支援活動を相互協力するための覚書」を締結。株式会社大分銀行と「連携・協力に関する協定」を締結。株式会社大分放送と学術交流協定を締結。教室棟、研究棟、スチューデントユニオン、APハウス(学生寮)を増築し、2月に竣工。2007年度より共用開始。
2008年 南部陽一郎アカデミック・アドバイザー、ノーベル物理学賞受賞。
2009年 アジア太平洋マネジメント学部を国際経営学部に名称変更。
2009年 スタンフォード大学と新エネルギー研究協定を締結[2]
教育および研究 [編集]
組織 [編集]
学部 [編集]
アジア太平洋学部 [編集]
文化・社会の多様性の中で複雑化するアジア太平洋地域の秩序形成や持続性について「社会学」「国際関係論」「地域研究」をベースに学ぶ。略称は「APS」(College of Asia Pacific Studies)。学位は、学士(アジア太平洋学)。
アジア太平洋学科
比較社会・文化クラスタ
Comparative Society and Culture
環境資源政策クラスタ
Environmental Resource Policy
国際社会ガバナンスクラスタ
International Governance
持続可能開発クラスタ
Sustainable Development
国際経営学部 [編集]
ダイナミックに発展するアジア太平洋地域のビジネス社会において、新たな価値の創造を実践できるリーダーに必要とされる経営学を学ぶ。略称は「APM」(Ritsumeikan Asia Pacific University, College of International Management)。学位は、学士(経営学)[3]。
アジア太平洋マネジメント学科
マーケティングと企業戦略分野
Marketing and Corporate Strategy
国際ビジネスと比較経営分野
International Business and Comparative Management
会計とファイナンス分野
Accounting and Finance
ニュービジネスとイノベーション分野
New Business and Innovation
クロスオーバー・アドヴァンスト・プログラム [編集]
クロスオーバー・アドヴァンスト・プログラムの学生はAPSAPMのいずれかに所属し、それぞれの専門領域の学修を基礎に両学部を融合(クロスオーバー)した5つの領域を学修する。学部や大学院間の垣根を取り払い、高度な教育・研究環境を提供するために創設された。略称は「CAP」(CAP: Crossover Advanced Program)。
ツーリズム&ホスピタリティインスティテュート
Tourism & Hospitality Institute
APSの観光学とAPM経営学部を学際的に融合し、ホスピタリティを提供するあらゆるサービス産業について政策的・戦略指向型の教育を行っている。
健康・環境・生命インスティテュート
Health, Environment and Life Sciences Institute
自然生態系と人間生態系の保全とセキュリティ構築や新たな環境創造に寄与できる人材の教育を行っている。
国際戦略インスティテュート
International Strategy Institute
アジア太平洋地域の政治的・文化的多様性による政治体制間の諸問題の本質を正確に捉え、国際機関等で実行力を持って問題解決に当たることのできる政策指向型教育を行っている。
ICTインスティテュート
Information and Communications Technology Institute
社会科学系と情報・理工系の知識とセンスを兼ね備え、ソフトウェアとハードウェアを組みあわせることで情報化社会のシステム構築などICT分野の「技術教養型人材」育成を主眼とする。
言語文化インスティテュート
Language and Culture Institute
異文化理解能力を備え、言語文化的側面からアジア太平洋地域を社会学経営学などの専門領域から分析・研究できる人材の育成を主眼とする。
大学院 [編集]
大学院は、学部教育の延長上にアジア太平洋研究科と経営管理研究科(経営大学院 MBA)が設置されている。前者にはアジア太平洋学専攻(博士前期・後期課程)と国際協力政策専攻(博士前期課程)が置かれ、修了すればそれぞれ修士(アジア太平洋学)・博士(アジア太平洋学)あるいは修士(国際協力政策)が得られる。後者には経営管理専攻が置かれ、こちらは修士経営管理)の学位が取得できる。なお授業はすべて英語でおこなわれている。

アジア太平洋研究科 GSA: Graduate School of Asia Pacific Studies
アジア太平洋学専攻(博士前期課程、博士後期課程 [Major] APS: Master's/Doctorate In Asia Pacific Studies
現代日本研究プログラム(博士前期課程) [Degree]: MajorMaster of Science in Asia Pacific Studies
国際協力政策専攻(博士前期課程) [Degree]: ICP: Master's in International Cooperation Policy
健康マネジメントプログラム(博士前期課程) [Degree]: Master of Science in International Cooperation Policy (Public Health Management)
国際原料流通マネジメントプログラム(修士課程) [IMAT]: International Material Flow Management Program)
日独共同修士環境管理プログラム Japan-Germany Dual Master's Degree Program in Environmental Management
経営管理研究科 MBA: Graduate School of Management
経営管理専攻(修士課程)
移行経済・経営システム・デザインプログラム Comparative Institution Design for Transition Economy and Business Management
附属機関 [編集]
APUライブラリー
APUメディアセンター
立命館アジア太平洋研究センター [RCAPS]: Ritsumeikan Center for Asia Pacific Studies
グローバル・ムーブメント Global Movement Studies
リソース・セキュリティ Resource Security
ヒューマン・ケイパビリティとイノベーション Human Capability and Innovation
言語教育センター Center for Language Education
国際協力・研究部
立命館アジア太平洋大学孔子学院
研究支援事業採択一覧 [編集]
文部科学省 [編集]
現代的教育ニーズ取組支援プログラム
2007年 学生力を活用した地域への還元教育システム−地域と学生が一緒に創る、別府・泉都観光ルネサンス・プログラム−
2006年 グローバル人材養成のためのキャリア教育
2004年 JWP: Japan & World Perspectives Program
大学院教育改革支援プログラム
2007年 立命館アジア太平洋大学MBAプログラム
新たな社会的ニーズに対応した学生支援プログラム
2007年 学生による若者と社会のための自主活動支援
国費外国人留学生(研究留学生)の優先配置を行う特別プログラム
2007年 革新と創造をもたらす『イノベーションと技術経営』人材育成プログラム
2006年 日本−EU/文理にまたがる大学院共同学位プログラム
2006年 移行経済・経営システム・デザインプログラム
大学教育の国際化推進プログラム
2005年 グローバル・アクティブ・ラーニングの開発(知識・経験・交流を連携させた教育プログラムの開発)
特色ある大学教育支援プログラム
2003年 多言語環境における日英二言語教育システム
経済産業省 [編集]
電源地域サービス産業人材育成事業
2005年 観光経営人材育成プログラム開発プロジェクト
経済産業省及び文部科学省 [編集]
アジア人財資金構想
2007年 グローバルビジネスリーダー育成プログラム
国立情報学研究所 [編集]
次世代学術コンテンツ基盤共同構築事業
特徴 [編集]
日英二言語教育システム [編集]
世界の様々な国や地域から学生が集い、日本で最も多くの外国人留学生が学ぶ大学である。延べ受入数は、まだ5000人程度であるが、現在籍者数の比較では日本一となり、2位の早稲田大学、3位の東京大学を上回る(平成20年5月現在)。加えて、教員の約半数が外国籍という多文化・多言語環境である、APUは英語と日本語による二言語教育システムを実践している。1・2年次は各学生の入学基準言語(英語または日本語)で基礎教育を学びつつ同時に言語習得に取り組む。3・4年次までには全学生が日本語と英語のいずれの言語でも専門教育が受けられる言語運用能力を涵養する。配付資料や掲示は日英二言語で表記され、ガイダンスも日本語と英語で行われる。そのため、一般的な私立大学と比較して、経営コストがかかる。APUの高額な学費は、この二言語教育システムによるものであるとの指摘もある。

言語教育センター [編集]
日本語・英語による正課プログラムのほかに、言語教育センターではアジア太平洋地域の6言語をカリキュラムで提供し、アクティブ・ラーニングなどのプログラムと連動させている。

アジア太平洋言語 Asia Pacific Language
アジア太平洋地域の言語は、中国語、韓国語、マレー語・インドネシア語スペイン語タイ語ベトナム語の6言語を入門レベルから上級レベルまで開講している。APUでは「AP言語」と呼ぶ。
アクティブ・ラーニング [編集]
「アクティブ・ラーニング(Active Learning)」は日本国内や世界各地における現地参加型学習の総称。APUでは学びの基本要素として「知識」「経験」「交流」の3つが重要だという考えのもと、実践的学習や体験を重視したプログラムとしてアクティブ・ラーニングを展開している。

インターンシップ(Internship)
企業、行政機関、NPONGOなどの実務経験を積み一定の条件を満たせば科目登録が可能。
交換留学(Study Abroad)
学生交換協定を締結している海外協定大学へ、1年もしくは1セメスターの期間留学する制度。
英語/AP言語イマージョンプログラム(English/AP Language Immersion Programs)
言語運用能力に重点を置いた海外研修プログラムで、APU独自のプログラムと、立命館大学と共同実施のプログラムがある。
フィールド・スタディ(Field Study)
教員とともに学外で調査活動を行う正課科目。現地で調査・分析に必要な技術を学ぶ。
テーマベース型プログラム(Theme Based Programs)
エコツーリズム」「環境」といったテーマ別にプログラムが組まれ、現地で調査活動などを行うプログラム。夏期・冬期の短期プログラムで実施している。
入学制度/卒業制度 [編集]
入学制度
APUでは年2回(春学期・秋学期)入学できるシステムになっている。
APUの特徴的な入学制度 [編集]
APUの特徴である「日英二言語教育システム」に早期に対応できる学生確保のため、現地日本語学校や海外主要高校と「協定校」関係を結び、各校の校長の推薦を受けた学生を選抜している。
主な推薦枠
海外協定校・海外日本人学校
海外政府派遣奨学生(2007年より、サウジアラビアから20名の受け入れを開始[4])
卒業制度
日本では学士課程の卒業に4年以上の在学が必要とされるが、APUでは成績優秀な者に対し、3年または3年半で卒業が可能な「早期卒業制度」を設けている。ただしCAP所属の学生は不可。
大学関係者と組織 [編集]
アドバイザリー・コミッティ [編集]
アドバイザリー・コミッティはAPUを支援する組織として1996年に設立され、メンバーは世界各国元首・大使をはじめ、日本を代表する経済界の要人で構成される。2007年1月現在で、名誉委員8名、インターナショナル委員10名、アンバサダーメンバー62名、世話人5名、代表世話人3名、委員199名の合計287名で構成される。

施設 [編集]
APハウス [編集]
APUにはAPハウスという寮があり、新入生の国際学生は全員がAPハウスに入る。日本の生活を知らない国際学生達でもここで生活することによって日本に慣れることができる。また日本の学生も1年次、APハウスに入ることができ(入試合格後、書類選考)、日本にいながら異文化の中で生活してお互いについて理解を深めることができる。(国際学生3:国内学生1の比)APハウスはAPUで学ぶことの魅力の一つである。RAという制度もあり、APハウスの中でリーダー的存在を担う。日本人の月額寮費は49000円、留学生は39000円である。なお、水道光熱費は寮費に含まれる。

APハウスはハウス1とハウス2に分けている。ハウス1にはウェスト棟、イースト棟とイーストツー棟、ハウス2はエル棟、アール棟とアールツー棟、合計六つがある。その中、イーストツー棟とアールツー棟の部屋はシェアタイプで、他の棟の部屋は個室である。

APハウスの共有施設として、お風呂、インターネット室、ロビーの無線ネット、ビリヤード(キューとボール付)、卓球(ラケットとボール付)、テーブルフットボール(ボール付)は無料で使える。

各フロアにはキッチン、シャワー室、倉庫がある。キッチンにはIHヒータ、テーブルと椅子がある。倉庫には共有の掃除機、アイロン、布団乾燥機が置いてある。

各部屋にはベット、机、椅子、冷蔵庫、エアコン、ランプ、布団(シーツ付)、電話、モデム(ネット使い放題)がある。その他、個室の部屋にはトイレ、洗面台もある。シェアタイプの部屋にはトイレと洗面台がないが、各フロアには設置している。

対外関係 [編集]
国内交流協定 [編集]
大学 [編集]
2000年 立命館大学
2004年 大学コンソーシアムおおいた
2006年 大分大学と協力協定を締結
高大連携 [編集]
2007年 立命館大学立命館アジア太平洋大学と学校法人岩田学園が「高大連携に関する協定」を締結。2008年4月から同法人の岩田中学校・高等学校に「立命館コース」を設置する。
地方自治体 [編集]
別府市まちづくり連携交流協定
2001年 大分県三重町(現・豊後大野市)と友好交流協定を締結。
2003年 大分県鶴見町(現・佐伯市)と友好交流協定を締結。
2003年 大分県臼杵市と友好交流協定を締結。
2004年 大分県別府市と友好交流協定を締結。
2004年 大分県蒲江町(現・佐伯市)と友好交流協定を締結。
2004年 大分県と友好交流協定を締結。
2005年 長野県飯田市と友好交流協定を締結。
2006年 大分県中津市と友好交流協定を締結。
2007年 大分県速見郡日出町と友好交流協定を締結。
2007年 大分県中津市山国町山国町商工会と研究交流協定を締結。
産学連携 [編集]
2007年 株式会社大分放送と学術交流協定を締結。
海外交流協定 [編集]
APUでは世界36の国・地域の105の大学と学生交換協定を結んでおり、留学制度が豊富にある(2008年12月末時点)。TOEFLである程度の点数(およそ550点程度)をとらなければならないが、それをクリアしさえすれば、留学しやすい環境である。 エコボランティア(オーストラリアなど)を単位認定してくれる制度もある。

共同学位プログラム [編集]
アメリカン大学(米国)への2年間の留学とAPUでの2年間の合計4年間で日米2大学の学位が取得できる。
慶熙大学(韓国)への2年間の留学とAPUでの2年間の合計4年間で日韓2大学の学位が取得できる。
オフィス [編集]
国内オフィス [編集]
東京オフィス Tokyo Office
立命館アカデメイア@大阪 Ritsumeikan Academia@Osaka
海外オフィス [編集]
韓国オフィス Office of Korea
立命館上海交通大学連絡処 Ritsumeikan Liaison Office located in Shanghai Jiao Tong University
台湾弁事処 Office of Taiwan
インドネシアオフィス Office of Indonesia
タイオフィス Office of Thailand
カナダオフィス Office of Canada
系列校 [編集]
大学
立命館大学
中学校・高等学校
立命館中学校・高等学校
立命館宇治中学校・高等学校
立命館慶祥中学校・高等学校
立命館守山中学校・高等学校
小学校
立命館小学校
関係校 [編集]
岩田高等学校(立命館コース)
歴代学長 [編集]
坂本和一(2000年1月 - 2004年3月)
モンテ・カセム(2004年4月 - 2009年12月)
是永駿(2010年1月 - )
脚注 [編集]
[ヘルプ]
^ APU Information (Vol 19): The APU tagline "Shaper your world" has been set." November 1, 2008
^ エコ・エネルギー研究で協定 2009年6月27日 大分新聞
^ April 24, 2008, APU Notice
^ サウジアラビア政府派遣学生受け入れ
外部リンク [編集]
ウィキメディア・コモンズには、立命館アジア太平洋大学に関連するカテゴリがあります。立命館アジア太平洋大学
受験生向け情報サイトAPUmate.net
立命館大学
APU韓国オフィス
APUカナダオフィス
[隠す]表・話・編・歴立命館

学校法人立命館により設置の大学 立命館大学 | 立命館アジア太平洋大学

同・高等学校 立命館高等学校 | 立命館宇治高等学校 | 立命館慶祥高等学校 | 立命館守山高等学校

同・中学校 立命館中学校 | 立命館宇治中学校 | 立命館慶祥中学校 | 立命館守山中学校

同・小学校 立命館小学校

その他 立命館孔子学院| 立命館アジア太平洋大学孔子学院

廃校 立命館大学短期大学部 | 立命館神山中学校・高等学校 | 宇治高等専修学校

関連項目 京都法政学校 | 立命館大学の人物一覧 | 立命館大学体育会硬式野球部 | 立命館大学パンサーズ | 立命館大学ラグビー

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日本の空港

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日本の空港(にほんのくうこう)では、日本国内における公共の用に供する飛行場[1]である空港とその他の飛行場(併せて空港等[2])について述べる。


日本で唯一、完全24時間運用が可能な関西国際空港 ウィキプロジェクト 空港・飛行場
目次 [非表示]
1 概要
2 日本の空港の特徴
3 日本の空港分類
3.1 拠点空港
3.1.1 会社管理空港
3.1.2 国管理空港
3.1.3 特定地方管理空港
3.2 地方管理空港
3.3 その他の空港
3.4 共用飛行場
3.5 公共・非公共用ヘリポート
4 地域一覧
4.1 北海道地方
4.2 東北地方
4.3 関東地方
4.4 中部地方
4.5 近畿地方
4.6 中国地方
4.7 四国地方
4.8 九州地方
4.9 沖縄県
4.10 過去に存在していた空港
4.11 建設中の空港
5 空港空撮画像ギャラリー
6 乗降客数
6.1 空港
6.2 ヘリポート
7 脚注
8 関連項目
9 外部リンク

概要 [編集]


日本の空港マップ 拠点空港(国管理空港) 地方管理空港日本の空港は空港法(旧:空港整備法)などにより大きく4種類の空港に分類され、さらに拠点空港は3つに分類される[3]。分類は空港施設整備費の負担や設置・管理主体の違いであり、分類された空港の名称及び位置は政令で定められている。[4]

拠点空港
国際航空輸送網又は国内航空輸送網の拠点となる空港(旧第一種及び旧第二種空港)
会社管理空港
4条1項に掲げられた各空港のうち、4条3項及び4条4項に掲げられた会社が設置し管理する空港。
国管理空港
4条1項2号の東京国際空港及び4条1項5号によって政令で掲げられた空港及び法施行時の経過措置[5]による八尾空港。ただし、空港整備法及び航空法の一部を改正する法律(平成20年法律第75号)附則3条1項に該当する特定地方管理空港を除く。
特定地方管理空港
4条1項5号によって政令で掲げられた空港のうち、法施行時に現に旧空港整備法4条2項の規定により地方公共団体が管理している[6]空港。
地方管理空港
国際航空輸送網又は国内航空輸送網を形成する上で重要な役割を果たす空港(旧第三種空港)。5条の規定によって拠点空港以外の地方公共団体が設置し管理する空港。
その他の空港
共用空港
自衛隊の設置する飛行場もしくは在日米軍が使用している飛行場で、民間の空港の機能も果たす空港
共用空港の国土交通大臣自衛隊の設置する共用空港の中で地方管理空港自衛隊共用空港と称される。

会社管理空港である成田国際空港成田国際空港株式会社、関西国際空港関西国際空港株式会社がそれぞれ設置・管理する。また、中部国際空港は、中部国際空港の設置及び管理に関する法律 第4条第1項 の規定による指定があつたときは、当該指定を受けた者(中部国際空港株式会社)が設置・管理する。地方管理空港では政令で定める関係地方公共団体が協議して定める地方公共団体が設置・管理する。

また、これらとは別に空港法によって規定されていない飛行場が存在し、その中にはビルの屋上のヘリポートなども含まれる。

日本の空港の特徴 [編集]
狭くて急峻な国土において、日本の空港は海外の基幹空港に比べて面積当たりの数が多く、規模が小さい傾向にある[7]。このような中規模クラスの空港は、比較的市街地から近い距離に配置されており利用者の利便性については優れているが、その反面需要の集約ができず就航路線の採算性が低下する側面も併せ持つ。日本の空港の着陸料は、世界で比較的高い水準にあるが[8]、利用料の多くを直接負担するのは航空会社である。一方、欧米の空港は乗客が支払う施設利用料が高額に設定されており、空港利用料の大半を旅客が直接負担する[9]。

一部の空港では正式な名称とは別に愛称を付けている。

日本の空港分類 [編集]
拠点空港 [編集]
会社管理空港 [編集]
関東:成田国際空港(成田空港)
中部:中部国際空港セントレア・中部空港)
近畿:関西国際空港関西空港関空
国管理空港 [編集]
北海道:新千歳空港稚内空港、釧路空港(たんちょう釧路空港)、函館空港
東北:仙台空港
関東:東京国際空港羽田空港ビッグバード
中部:新潟空港
近畿:大阪国際空港伊丹空港)、八尾空港(経過措置)
中国:広島空港
四国:高松空港松山空港高知空港高知龍馬空港
九州:福岡空港北九州空港長崎空港、熊本空港(阿蘇くまもと空港)、大分空港、宮崎空港鹿児島空港
沖縄:那覇空港
特定地方管理空港 [編集]
北海道:旭川空港帯広空港とかち帯広空港
東北:秋田空港山形空港
中国:山口宇部空港
地方管理空港 [編集]
北海道: 利尻空港礼文空港奥尻空港中標津空港根室中標津空港)、紋別空港オホーツク紋別空港)、女満別空港
東北: 青森空港花巻空港いわて花巻空港)、大館能代空港(あきた北空港)、庄内空港、福島空港
伊豆諸島: 大島空港新島空港神津島空港三宅島空港八丈島空港
中部: 佐渡空港富山空港能登空港福井空港松本空港信州まつもと空港)、静岡空港富士山静岡空港
近畿: 神戸空港マリンエア)、南紀白浜空港
中国: 鳥取空港隠岐空港出雲空港石見空港萩・石見空港)、岡山空港
九州: 佐賀空港有明佐賀空港)、対馬空港小値賀空港福江空港上五島空港壱岐空港
薩南諸島: 種子島空港屋久島空港奄美空港喜界空港徳之島空港沖永良部空港与論空港
沖縄: 粟国空港久米島空港慶良間空港南大東空港北大東空港伊江島空港宮古空港下地島空港多良間空港石垣空港波照間空港与那国空港
その他の空港 [編集]
関東: 調布飛行場大利根飛行場阿見飛行場龍ヶ崎飛行場
中部: 名古屋飛行場県営名古屋空港
近畿: 但馬飛行場(コウノトリ但馬空港
中国: 岡南飛行場広島西飛行場
九州: 天草飛行場大分県央飛行場、枕崎飛行場、薩摩硫黄島飛行場
共用飛行場 [編集]
北海道: 札幌飛行場(丘珠空港自衛隊共用空港)、千歳飛行場
東北: 三沢飛行場三沢空港自衛隊アメリカ空軍共用空港)
関東: 百里飛行場茨城空港自衛隊共用空港:民間施設を建設中)
中部: 小松飛行場小松空港自衛隊共用空港)
中国: 美保飛行場米子空港自衛隊共用空港)
四国: 徳島飛行場徳島空港自衛隊共用空港)
公共・非公共用ヘリポート [編集]
北海道: 足寄ヘリポート占冠ヘリポートニセコヘリポート、増毛ヘリポート、乙部ヘリポート、豊富ヘリポート、砂川ヘリポート
東北: 米沢ヘリポート
関東: 東京ヘリポート、芝浦ヘリポート、群馬ヘリポート、高崎ヘリポート、栃木ヘリポート、つくばヘリポートホンダエアポート
中部: 静岡ヘリポート、津市伊勢湾ヘリポート、若狭ヘリポート
近畿: 奈良県ヘリポート舞洲ヘリポート、神戸ヘリポート湯村温泉ヘリポート、播磨ヘリポート
九州: 佐伯ヘリポート
地域一覧 [編集]
北海道地方 [編集]
詳細は「北海道#空港」を参照

新千歳空港千歳市苫小牧市
函館空港函館市
釧路空港(たんちょう釧路)〔釧路市
旭川空港東神楽町旭川市
女満別空港大空町
札幌飛行場(丘珠空港)〔札幌市〕
稚内空港稚内市
帯広空港とかち帯広空港)〔帯広市
利尻空港利尻富士町
礼文空港礼文町〕 - 2009年4月9日より2015年3月31日までの予定で供用休止中。
紋別空港オホーツク紋別空港)〔紋別市
中標津空港根室中標津空港)〔中標津町
奥尻空港奥尻町
天寧飛行場〔紗那村〕‐現在、日本政府の実効支配下にない。
東北地方 [編集]
詳細は「東北地方#空港」を参照

青森空港青森県青森市
三沢飛行場三沢空港)〔青森県三沢市
花巻空港いわて花巻空港)〔岩手県花巻市
仙台空港宮城県名取市
大館能代空港(あきた北空港)〔秋田県北秋田市
秋田空港秋田県秋田市
庄内空港山形県酒田市鶴岡市
山形空港山形県東根市
福島空港〔福島県玉川村
関東地方 [編集]
東京と成田の両空港はマルチエアポート対応

成田国際空港(成田空港)〔千葉県成田市
東京国際空港羽田空港)〔東京都大田区
調布飛行場〔東京都調布市
大島空港〔東京都大島町
新島空港〔東京都新島村
神津島空港〔東京都神津島村
三宅島空港〔東京都三宅村
八丈島空港〔東京都八丈町
百里飛行場茨城県小美玉市
民間施設を建設中。民間施設は茨城空港として2010年3月開港予定。
中部地方 [編集]
詳細は「北陸地方#空港」を参照

中部と名古屋の両空港はマルチエアポート対応

中部国際空港セントレア・中部空港)〔愛知県常滑市
名古屋飛行場県営名古屋空港)〔愛知県春日井市小牧市豊山町名古屋市北区
松本空港信州まつもと空港)〔長野県松本市塩尻市
新潟空港新潟県新潟市東区
佐渡空港新潟県佐渡市〕 - 定期便無し
富山空港富山県富山市
能登空港〔石川県輪島市穴水町能登町
小松飛行場小松空港)〔石川県小松市
福井空港福井県坂井市〕 - 定期便無し
静岡空港富士山静岡空港)〔静岡県島田市牧之原市
近畿地方 [編集]
大阪・関西・神戸の関西三空港はマルチエアポート対応

大阪国際空港伊丹空港)〔兵庫県伊丹市大阪府池田市豊中市
関西国際空港大阪府泉佐野市・田尻町泉南市
八尾空港大阪府八尾市〕 定期便無し
但馬飛行場(コウノトリ但馬空港)〔兵庫県豊岡市
神戸空港マリンエア)〔兵庫県神戸市中央区
南紀白浜空港和歌山県白浜町
中国地方 [編集]
詳細は「中国地方#空港」を参照

岡山空港岡山県岡山市北区
岡南飛行場岡山県岡山市南区〕 定期便無し
広島空港〔広島県三原市
広島西飛行場広島県広島市西区
山口宇部空港山口県宇部市
鳥取空港鳥取県鳥取市
美保飛行場米子空港)〔鳥取県境港市
出雲空港島根県斐川町
石見空港萩・石見空港)〔島根県益田市
隠岐空港島根県隠岐の島町
四国地方 [編集]
詳細は「四国#空港」を参照

徳島飛行場徳島空港)〔徳島県松茂町
高松空港香川県高松市
松山空港愛媛県松山市
高知空港高知龍馬空港)〔高知県南国市〕
九州地方 [編集]
詳細は「長崎県#空港」、「鹿児島県#空港」をそれぞれ参照

福岡空港〔福岡県福岡市博多区
北九州空港〔福岡県北九州市小倉南区苅田町
佐賀空港有明佐賀空港)〔佐賀県佐賀市
熊本空港(阿蘇くまもと空港)〔熊本県益城町
天草飛行場天草空港)〔熊本県天草市
大分空港〔大分県国東市
大分県央飛行場大分県央空港)〔大分県豊後大野市大野町〕 - 定期便無し
宮崎空港〔宮崎県宮崎市
長崎空港長崎県大村市
小値賀空港長崎県小値賀町〕 - 定期便無し
福江空港長崎県五島市
上五島空港長崎県新上五島町〕 - 定期便無し
壱岐空港長崎県壱岐市
対馬空港長崎県対馬市
鹿児島空港〔鹿児島県霧島市
種子島空港〔鹿児島県中種子町
屋久島空港〔鹿児島県屋久島町
奄美空港〔鹿児島県奄美市
喜界空港〔鹿児島県喜界町
徳之島空港〔鹿児島県天城町〕
沖永良部空港〔鹿児島県和泊町
与論空港〔鹿児島県与論町
枕崎飛行場(枕崎空港)〔鹿児島県枕崎市〕 - 定期便無し
薩摩硫黄島飛行場〔鹿児島県三島村〕 - 定期便無し
沖縄県 [編集]
詳細は「沖縄県#空港」を参照

那覇空港那覇市
粟国空港粟国村
伊江島空港伊江村〕 - 定期便無し
久米島空港久米島町
慶良間空港座間味村〕 - 定期便無し
北大東空港北大東村
南大東空港南大東村
宮古空港宮古島市
下地島空港宮古島市〕 - 定期便無し
多良間空港多良間村
石垣空港石垣市
波照間空港竹富町〕 - 定期便無し
与那国空港与那国町
過去に存在していた空港 [編集]
紋別空港 〔北海道紋別市〕 - 1999年11月11日に現空港への移転により廃港。なお、現空港は旧空港との区別上、2000年3月1日まで新紋別空港とされていた。
北九州空港(旧二種空港)〔福岡県北九州市〕 - 現空港に移転
種子島空港(旧三種空港)〔鹿児島県中種子町〕 - 現空港に移転
両空港については、旧空港の廃止による移転のため、2008年6月18日付の官報告示により現空港の名称から「新」の文字が取れた。
旧計根別飛行場〔北海道別海町中標津町〕- 一部は西春別空港、一部は別海フライトパークとして再利用される。
牧の内飛行場〔北海道根室市
愛国飛行場〔北海道釧路町
西春別空港〔北海道別海町
弟子屈飛行場〔北海道弟子屈町〕 - 2009年9月24日に廃止
東洋航空藤沢飛行場 〔神奈川県藤沢市〕 - 1964年10月31日に廃止
諏訪之瀬島飛行場〔鹿児島県十島村
桃原飛行場〔沖縄県本部町
南大東飛行場〔沖縄県南大東村
ボーロ飛行場〔沖縄県
読谷補助飛行場〔沖縄県読谷村〕 - 現在は一般道として使用
鶉野飛行場〔兵庫県
建設中の空港 [編集]
新石垣空港沖縄県石垣市〕 2013年開港予定
空港空撮画像ギャラリー [編集]
稚内空港
丘珠空港  国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を元に作成。
仙台空港
福島空港

羽田空港
大島空港
富山空港
能登空港

小松飛行場
静岡空港
中部国際空港
関西国際空港

八尾空港 国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を元に作成。
神戸空港
隠岐空港
美保飛行場

松山空港
大分空港
大分県央飛行場
南大東空港

乗降客数 [編集]
空港 [編集]
2006年度[10]
■: 空港連絡鉄道がある空港。
チャーター便の旅客数含む
単位は「人」
東京国際空港便(羽田便)も調布飛行場便もない空港は★、季節運行である空港は☆
成田国際空港便がある空港は○
順位
空港
旅客合計
国内線
国際線
種別

1 東京★ 66,883,129 65,265,791 1,617,338 国管理空港
2 成田★ 32,016,338 1,150,380 30,865,958 会社管理空港
3 新千歳○ 18,536,350 17,768,210 768,140 国管理空港
4 福岡○ 18,123,731 15,885,543 2,238,188 国管理空港
5 大阪○ 16,842,868 16,842,868 0 国管理空港
6 関西 16,448,234 5,460,214 10,988,020 会社管理空港
7 那覇○ 14,495,054 14,215,955 279,099 国管理空港
8 中部★○ 11,721,673 6,525,690 5,195,983 会社管理空港
9 鹿児島 5,714,736 5,630,236 84,500 国管理空港
10 仙台★○ 3,387,463 3,047,955 339,508 国管理空港
11 広島○ 3,337,027 2,983,110 353,917 国管理空港
12 熊本 3,167,940 3,119,545 48,395 国管理空港
13 宮崎 3,082,612 3,010,033 72,579 国管理空港
14 松山 2,750,402 2,689,958 60,444 国管理空港
15 神戸 2,743,004 2,742,951 53 地方管理空港
16 長崎 2,668,143 2,605,829 62,314 国管理空港
17 小松○ 2,556,845 2,468,256 88,589 共用空港
18 函館 2,006,096 1,881,326 124,770 国管理空港
19 石垣 1,978,553 1,976,724 1,829 地方管理空港
20 大分 1,884,641 1,851,365 33,276 国管理空港
21 岡山 1,603,255 1,390,630 212,625 地方管理空港
22 高松 1,524,303 1,483,166 41,137 国管理空港
23 高知 1,490,541 1,486,100 4,441 国管理空港
24 秋田 1,324,736 1,282,222 42,514 特定地方管理空港
25 富山 1,289,144 1,157,549 131,595 地方管理空港
26 旭川 1,275,966 1,190,448 85,518 特定地方管理空港
27 北九州 1,270,666 1,240,389 30,277 国管理空港
28 青森 1,261,908 1,207,826 54,082 地方管理空港
29 新潟★ 1,258,003 1,019,290 238,713 国管理空港
30 宮古 1,114,679 1,114,679 0 地方管理空港
31 女満別 1,084,195 1,070,426 13,769 地方管理空港
32 山口宇部 907,212 903,997 3,215 特定地方管理空港
33 釧路 905,952 873,708 32,244 国管理空港
34 徳島 873,290 872,004 1,286 共用空港
35 出雲 744,856 742,283 2,573 地方管理空港
36 帯広 643,202 606,727 36,475 特定地方管理空港
37 奄美 598,131 598,131 0 地方管理空港
38 福島★ 529,726 439,683 90,043 地方管理空港
39 美保 498,893 463,795 35,098 共用空港
40 花巻★ 445,626 434,036 11,590 地方管理空港
41 庄内 431,427 430,006 1,421 地方管理空港
42 名古屋★ 418,273 415,965 2,308 その他の空港
43 札幌★ 383,242 383,242 0 共用空港
44 鳥取 340,597 339,186 1,411 地方管理空港
45 三沢 321,830 321,830 0 共用空港
46 対馬★ 295,489 295,489 0 地方管理空港
47 佐賀 298,331 288,008 10,323 地方管理空港
48 久米島☆ 245,959 245,959 0 地方管理空港
49 八丈島 234,647 234,647 0 地方管理空港
50 稚内 232,044 231,800 244 国管理空港
51 中標津 207,545 207,245 300 地方管理空港
52 山形 199,380 198,232 1,148 特定地方管理空港
53 能登 172,186 164,360 7,826 地方管理空港
54 屋久島★ 167,047 167,047 0 地方管理空港
55 徳之島★ 161,036 161,036 0 地方管理空港
56 福江★ 158,540 158,540 0 地方管理空港
57 大館能代 146,074 146,074 0 地方管理空港
58 南紀白浜 136,536 135,268 1,268 地方管理空港
59 松本★ 121,243 119,511 1,732 地方管理空港
60 大島 98,533 98,533 0 地方管理空港
61 与那国★ 82,300 82,300 0 地方管理空港
62 喜界★ 78,169 78,169 0 地方管理空港
63 天草★ 74,857 74,857 0 その他の空港
64 石見 70,369 69,859 510 地方管理空港
65 与論★ 64,945 64,945 0 地方管理空港
66 広島西★ 62,601 62,601 0 その他の空港
67 紋別 54,267 54,267 0 地方管理空港
68 隠岐★ 53,965 53,965 0 地方管理空港
69 調布★ 44,427 44,427 0 その他の空港
70 南大東★ 34,672 34,672 0 地方管理空港
71 多良間★ 33,132 33,132 0 地方管理空港
72 利尻★ 30,779 30,779 0 地方管理空港
73 壱岐★ 28,778 28,778 0 地方管理空港
74 但馬★ 28,069 28,069 0 その他の空港
75 新島 21,142 21,142 0 地方管理空港
76 神津島 13,138 13,138 0 地方管理空港
77 北大東★ 12,807 12,807 0 地方管理空港
78 奥尻★ 12,105 12,105 0 地方管理空港
79 粟国★ 11,685 11,685 0 地方管理空港
80 佐渡★ 10,758 10,758 0 地方管理空港
81 波照間★ 4,728 4,728 0 地方管理空港
82 慶良間★ 2,145 2,145 0 地方管理空港
83 伊江島★ 388 388 0 地方管理空港
84 福井★ 49 49 0 地方管理空港
85 大分県央★ 35 35 0 その他の空港
礼文★ 0 0 0 地方管理空港
− 三宅島★ 0 0 0 地方管理空港
− 小値賀★ 0 0 0 地方管理空港
上五島★ 0 0 0 地方管理空港
下地島★ 0 0 0 地方管理空港
弟子屈★ 0 0 0 その他の空港
− 岡南★ 0 0 0 その他の空港
− 枕崎★ 0 0 0 その他の空港

ヘリポート [編集]
2006年度

順位 ヘリポート 着陸回数
1 東京 12,812回
2 舞洲 3,713回
3 静岡 2,001回
4 神戸 1,733回
5 群馬 1,632回
6 つくば 1,333回
7 津市伊勢湾 1,177回
8 栃木 875回
順位 ヘリポート 着陸回数
9 奈良県 833回
10 佐伯 146回
11 若狭 131回
12 砂川 100回
13 高崎 80回
14 ニセコ 73回
15 米沢 48回
順位 ヘリポート 着陸回数
16 豊富 43回
17 増毛 41回
18 播磨 37回
19 足寄 23回
20 乙部 21回
21 湯村温泉 7回
22 占冠 4回



脚注 [編集]
^ 空港法第2条
^ 航空法第2条第6項
^ 国土交通省航空局:空港の一覧
^ 空港法施行令 別表第1から別表第3
^ 空港法施行規則 附則(平成20年6月18日政令第197号)2条
^ 空港整備法及び航空法の一部を改正する法律(平成20年法律第75号)附則3条1項
^ 滑走路の本数が少なく、距離も短い。ひとつしかターミナルビルを持たない空港がほとんどである。
^ 着陸料は機体種別によるが、関西国際空港が世界6位、成田国際空港は世界17位である。
^ 近年は着陸料・旅客負担ともに低価なアジアの空港が台頭しつつある。
^ 空港管理状況調書(国土交通省航空局。2006年度)
関連項目 [編集]
空港コード
レディオ空港
リモート空港
国土交通省 - 航空局
航空管制官
航空会社
交通
空港連絡鉄道・バス (交通機関)・タクシー・駐車場
場外離着陸場 - 農道離着陸場
外部リンク [編集]
えあぽネット: 空港ホームページのポータルサイト
国土交通省 空港配置図
港・空港別 訪日外客数・出国日本人数(国際観光振興機構
航空輸送統計調査(国土交通省
航空行政の概要 - 統計・データ等(国土交通省航空局)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E7%A9%BA%E6%B8%AF」より作成
カテゴリ: コメント依頼 | 日本の空港 | 空港の一覧

最終更新 2010年2月4日 (木) 11:24